石ころ

失われたもの(1) (ルカ15章)




徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
そこで、イエスは次のたとえを話された。(ルカ15:1~3)

「あなたがたの中に、100匹の羊を持っている人がいて、その1匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ15:4~7)


 迷わなかった99匹の羊は野原に残された。それは悔い改める必要のない99人の正しい人とある。「悔い改める必要のない正しい人」なんか居るのだろうか。まずその言葉に驚いた。
見つけ出された1匹の羊は、悔い改めた罪人であり担いで連れ帰られた。しかも、その一人によって天は大きな喜びとなったのだ。

悔い改める必要のない正しい人とは、罪人の救いに不平をもらした宗教者たちであろう。自分で正しいと思っている者はそのままにされるのだ。
イエス様は救いを必要としている人の救い主である。その人の悔い改めは天で軽んじられることはなく大きな喜びとなるとある。


 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。
そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(ルカ15:8~10)


10枚の内失われた1枚の銀貨は、絶対に失われた銀貨でなければならず、10枚揃えば何でも良いのではない。他の銀貨には代えられないから、失われていたものが見つかるまで捜される。だから、その一枚が見つかることは天使の喜びなのである。

ともし火をつけ、家中(心の内)を掃き清めつつ見つかるまで捜すのは、なんだか与えられたみことばを捜す作業のようだ。
共に喜ぶことが出来る人々は、その一枚の価値を知っている人たちである。

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