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石ころ


 私は子どもの頃読んだり書いたりすることが好きで、活字を見るとそれがどのような種類のものであろうと片っ端から読んでしまうので、母が「困ることがある」と話しているのを聞いたことがあった。

 難しくて内容が分かろらなくても、とにかく手にすると片っ端から読んでしまった。そんな私の子どもの頃の夢は小説家になることだった。たわいないお話などを藁半紙に書いては、手作りの本を作って遊んだ。

 でも、「小説家になりたかった。」などと人に話すのはこれが初めて。絶対に口に出して言ういことはなかった。それは、うっかり話して笑われ、否定されることを恐れていたからだろう。母ならちゃんと聞いてくれただろうけれど、話す暇もなく亡くなってしまったから。

 私の心の中には、「小説家になることって学校を出ていなくても、紙と鉛筆があればできるじゃないか。」そんな安易な思いがあったので、一人で生きてゆくことに追われているときにも完全に絶望はしてはいなかった。

 しかしある時、ちょっとは売れた私小説を書かれた方の講演を聞いた後で、その方を囲んでの茶話会に出席をし、その方の様子を間近に見ていて私の夢は完全に消えてしまった。

 その方には空っぽで虚ろな雰囲気が満ちていて、イライラと煙草をふかし、孤独で淋しそうで少しも幸せそうではなかった。一番悪い例に出会ったのだろうけれど、自分の心の中にあるものをすべてを書いてしまったとき、自分が空っぽになってしまうのだろうということは想像ができた。

 私もブログに自分の内にあるものを書いてある時期、「もう終わりだ」と思ったことがあった。「もうからっぽだ」と...でも、励ましてくださる方が居てくださり、主の備えによってなんとなく続けている内に、このことの主の憐れみに気づくことができた。

 ものを書くことが好きだから書くというチャンスが与えられた。主の愛は決して尽きることがないから、主の愛は日ごとに新しく満たされるから、このことの喜びを綴る限り無限に書き続けることが出来る。しかも手放しで「私はこんなに愛されています。」なんてそんなことを書くことができる。

 本当に、まだ祈ることも知らない幼い日の私の夢さえ、主というお方は見過ごしになさらず、覚えてくださってチャンスを備えて下さった。決して絶望することのない主の御手の中で、私は自由に思いを語り、主の愛をのろけることができることはなんと幸せなことだろう。いや、このお方が共にいて下さる限り、たとえ何も出来なくなっても、御手の中でうつらうつらと喜んでいることができる。

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