初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(ヨハネ1:1~3)
ヨハネは、イエスが天地創造の神であることを書き記し、黙示録の新天新地までを書き、神のご計画の初めと終わりを書いている。彼ほど、イエスがどなたであるかを知っている人は他にはいない。
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(11~12)
またキリストを信じるだけで神の子されることも、はっきりと書いている。それは彼の 信じて生きていた所であり、神の愛を満喫した根拠である。
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(13)
彼が用いられたのは博識や熱心によることではなく、家柄や血筋によることでもない。
神が漁師の彼を選び、初めから終わりまで知らされたことに拠る。
そのように選ばれた彼の特性は、「イエスが愛さた弟子」という信仰によって、神の愛の内に住んでいたことである。
神の愛を疑う者が使命を全うすることはできない。その疑いには、サタンの足代があるからである。
ヨハネにすべてを成し遂げさせたものは、彼が告白し続けたイエスの愛である。
また、律法の時代に在って、信仰による救いを短いことばで明確に知らせたのも、イエス・キリストの救いのことばに安息していた、彼の経験から出たことである。
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(16~17)