石ころ

マリヤのカナの祈り、カナンの女の祈り(2020.5.6.デボーション)

 

それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ2:1~4)

 

マリヤの願いは拒絶されたかのようであった。彼女の願いは神の時をわきまえぬ祈りのようである。
カナンの女も、娘の癒しをイエスに願った時、イエスは道理を説かれて拒絶されたかのようであった。その願いは身の程をわきまえぬ祈りのようでもある。

 

その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」(マタイ15:22)

イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。
しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。(マタイ15:26~28)

 

私たちの祈りは時も分もわきまぬ祈りである。それでも、私たちはキリスト以外の誰にも願ったり、訴えたりすることができない者なのである。
主のご真実は、そのような祈りを無視なさることができないのだ。その祈りは神の時を変え、神の恩寵を広げて行くことができるのだった。

 

イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。(ヨハネ2:11)

 

恥をも拒絶をも、そのまま受けて待ち望む従順の内に、イエスの時は早められ神に栄光を現わして、弟子たちはイエスを知ることになった。


それにしても、イエスを招くことはなんと大きな祝福をもたらせることだろう。主は招く人のうちに来てくださるお方である。来てすべての必要を豊かに満たしてくださり、滅びることのないいのちをたまわることさえできるのだから・・。

 

マリヤの願いは、若い人の恥を守る結婚の祝福のためであった。その執り成しによって、神が婚礼を豊かに祝福された。私たちの祈りは神の祝福をもたらせることができるのだ。

 

ただ、それはイエスのことばに在る、親子の縁を切るような激しい言葉を受け入れた結果であった。この時からイエスは、マリヤには礼拝するべき主となられた。

マリヤはイエスの言葉を聞いても、何時も両親に仕えておられたイエスに信頼して、手伝いの人には、お言葉に従うように命じた。
これは、イエス次第で恥をかく覚悟の行為である。祈りはどんな祈りでも神は聞いておられる。しかし、私たちには結果に服する覚悟が必要なのである。

 

さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。(ヨハネ2:6~7)

 

手伝った人たちは忠実な者であった。お言葉は常識では量れない分量ではあるが、そのすべての水がめの縁までいっぱいに満たした時、イエスの初めの奇跡が現わされた。
一切の人の判断を差し挟まず、完全にみことばに従順したとき神の「時が来た」のだ。

 


彼女たちのしたことは、今私たちには祈りであり「みこころがなりますように」とは少し違う。神の時でもなく神に願うにふさわしい者でもなかった。しかし、彼女たちの祈りが神の時を来たらせたのである。

 

今、再臨を祈るべき時、心に掛かるもろもろの思いを持っているが、それらのすべてを主の御前に置いて、「主よ。来てください。」と祈ろう。すべてのことが神の栄光となることを、今日教わったのだから・・。
 


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