石ころ

聖なる血の赤は救いの色(ヨシュア記2章)

 

見なさい、私たちはこの地に入って来ます。私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結び付けておきなさい。あなたの父、母、兄弟、そして、あなたの一族全員をあなたの家に集めておきなさい。(18)

 

ノアの家族もみことばに従って箱舟に入ったことで救われた。家族が命を得たほどの善行とはみことばに留まったことである。

ロトの家族も、ロトと共にみことばに従った者は救われた。主は家族ぐるみで救いを備えてくださる。それは神が家族が引き裂かれる悲しみをご存じだからである。

 

神は、愛するひとり子イエスを十字架に掛けるために、地に下して滅びゆく人類を救ってくださった。それゆえ、家族が引き裂かれる悲しみは誰よりもご存じなのである。

 

あなたの家の戸口から外に出る者がいれば、その人の血はその人自身の頭上に降りかかり、私たちに罪はありません。しかし、あなたと一緒に家の中にいる者のだれにでも手が下されたなら、その人の血は私たちの頭上に降りかかります。(19)

 

今、主は信仰者のうちにいてくださる。またキリストのうちに居て、キリストの平安に浸され、キリストの永遠を共有しているのだ
まだ死を通る身だけれど、ご真実な神の約束によって、永遠なる霊の救いは完成している。それは死によって無になるものではなく、死を経て完了する祝福である。

 

世のどんな出来事もこの望みを砕くことは出来ない。この神の約束を反故にするものは何もない。
ヨブを訴えたサタンも、キリストの約束には指一本触れることは出来ない。それはもう十字架で成就したことだからである。
そこにキリスト者は安息しているのである。自分の行いによることではなく、すでに主の中に在る者の平安である。

 

「だが、もしあなたが私たちの、このことをだれかに告げるなら、あなたが私たちに誓わせた、あなたへの誓いから私たちは解かれます。」
彼女は「おことばどおりにしましょう」と言い、二人を送り出した。彼らは去り、彼女は窓に赤いひもを結んだ。(20~21)

 

赤い紐はキリストの十字架の血潮。キリストを信じる者の罪を贖うために支払われた、御子のいのちの価値に拠ることである。
キリスト者には、神の御目に見える赤いリボンが結ばれている。どのような訴えも決して解くことの出来ないリボンである。


ただ、唯一自分で解くことが出来るのは、神は人に自由を与えられたからである。それは御子が十字架に掛かって、その背きの罪を贖うことになったほどの自由である。

 

彼らはヨシュアに言った。「主はあの地をことごとく私たちの手にお与えになりました。確かに、あの地の住民はみな、私たちのゆえに震えおののいています。」(24)

 

主のご計画を成し遂げるのは主の備えによることである。神より発し、神に拠って成る救いは、アブラハムに約束された空の星海辺の砂ほどの聖徒たちが、死と言う敵の門を勝ち取って永遠に主をほめたたえる賛美となり、神の栄光に至るのである。


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