石ころ

いのちを求める熱心(ヨシュア記2章)

 

エリコの王はラハブのところに人を遣わして言った。「おまえのところに来て、おまえの家に入った者たちを出せ。その者たちは、この地のすべてを探ろうとしてやって来たのだから。」
ところが、彼女はその二人をかくまって言った。「そうです。その人たちは私のところに来ました。でも、どこから来たのか、私は知りません。(3~4)

 

主に信頼して行動するなら恐れることはない。彼女は、今神が味方であることを知っているのだ。

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31)

 

彼女は二人を屋上へ上がらせ、屋上に積んであった亜麻の茎の中におおい隠していた。(6)

彼女の知恵は神から出た知恵である。ただ、咄嗟に彼女が彼らを助けたのは、彼女が主を知っていたからである。
彼女は町の情報も得ていたが、事が起こったときに咄嗟に主に付く行動が出来るのは、主を思っているから出来ることである。

 

あなたがたがエジプトから出て来たとき、主があなたがたのために葦の海の水を涸らされたこと、そして、あなたがたが、ヨルダンの川向こうにいたアモリ人の二人の王シホンとオグにしたこと、二人を聖絶したことを私たちは聞いたからです。(10)

 

それはイスラエルの民のための奇跡であったが、その御わざは今日に至るまで、聖書に救いを求めて開く異邦人にも、主が唯一の力ある神であることを証して、素直な信仰を持つ者を救いに至らせているのである。

 

私たちは、それを聞いたとき心が萎えて、あなたがたのために、だれもが気力を失ってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです。(11)

 

彼女の家には情報が集まっていた。彼女は聞いた言葉によって神を信じていた。経験したイスラエルの民が御わざを忘れてつぶやき、主に逆らっていたにも関わらず、彼女は聞いた言葉を覚えて主なる神を思っていたのである。

 

 信仰には不思議なことがある。「なぜ信じないのだろう」と思う時と、「なぜこれほど素直に信じることができるのだろう」と思う時である。
そんなとき「初めに神が選び・・」というみことばを思い出す。信仰は激しい霊の渇きのうちに、御声を聞いた者の応答である。

 

今、主にかけて私に誓ってください。私はあなたがたに誠意を尽くしたのですから、あなたがたもまた、私の父の家に誠意を尽くし、私に確かなしるしを与え、
私の父、母、兄弟、姉妹、また、これに属するものをすべて生かして、私たちのいのちを死から救い出す、と誓ってください。」(12)

 

彼女が執着したのは命である。キリスト者が執着するものも、父なる神の御許に在るいのちである。そこからあらゆる働きが導かれて行くのだ。主への激しい渇きから出る力がある。

 

二人は彼女に言った。「私たちはあなたがたに自分のいのちをかけて誓う。あなたがたが私たちのことをだれにも告げないなら、主が私たちにこの地を与えてくださるとき、あなたに誠意と真実を尽くそう。」
そこで、ラハブは綱で窓から彼らをつり降ろした。彼女の家は城壁に建て込まれていて、彼女はその城壁の中に住んでいた。(14~15)

 

彼女の勇気と力は主の助けの中にある。神の計画を成し遂げさせるのは主である。彼女は主に信頼して自分のものではない力によって恐怖を忘れ、男を釣り下ろしたのである。ラハブのいのちへの熱心は家族を救った。その願いがなければ家族も滅びたのである。

ノアの箱舟造りもいのちへの熱心がないなら、一滴の雨も降らぬ中で家族を巻き込んで働き続けることが出来ただろうか。

 

今信仰者に取って、神と共にある永遠への望みが明確であることは、どれほどに生き方を変える力を持つことであろう。

父なる神に世で流した涙を拭われて、罪の汚れの全くない完全な霊的礼拝の中で、空の星海の砂ほどの人々がまったく一つとなって、永遠に続く平和を主の御元で生きる日を思う、キリスト者の希望の力である。


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