わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。
わざわいだ。おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。(ルカ11:43~44)
死を意識する事は、人に永遠への思いを起こさせるために重要である。墓はそれを思い出させる場所、しかし彼らの墓は何の記念にもならなかった。
彼らはそのことを語らず、彼らを通して知る人もなく、滅びからの脱出の道であるイエスさまの御わざもねじ曲げて悟らず、世の高みで満足していたからである。
災害などか終末に近付くほど激しくなるのは、イエスさまがいのちの備えをうながすために、愛する人の心の戸を叩いておられるのである。
「福音を受け入れて永遠への備えをしなさい。わたしが十字架であなたの救いを完成したことを信じなさい。」と知らせてくださっているのである。
死は生まれた者すべてのゴール。しかし生きている間なら選び取る事の出来る、永遠の救いがあることを知って欲しい。死んでしまっては手遅れになる。
就活や婚活どころじゃない。死をもっと真正面から見つめ欲しいと願うのは、十字架ですべての人の罪を負ってくださったイエスさまの願いによることなのだ。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
死を誤魔化さないで、目を背けないで、今のとても貴重な時間を永遠の備えとして欲しい。防災のことも健康のことも到る所で繰り返し教えられるが、人の命はそれでも守れない。日々の営みに埋没して目の前だけを見て終えてはならないのだ。
イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。(ルカ11:46)
仕えるために来られたイエスさまから、彼らはもっとも遠い存在であった。律法の専門家なら、律法をただおひとり成就される方に恥じ入ったはずである。彼らはイエスさまの良い行いを見ても悟らなかった。
イエスさまは私たちの罪の重荷を十字架で負って、処罰から解放してくださったのである。
わざわいだ。律法の専門家たち。おまえたちは知識のかぎを持ち去り、自分も入らず、入ろうとする人々をも妨げたのです。(ルカ11:52)
主を知る知識のかぎは求めるすべての人が用いるべきである。しかし彼らはそれを隠して知らせず、自分たちも用いて知ろうとはしなかった。
今も主を知ろうとする人に制限を加えるものがある。主を知ることは聖霊に信頼して解き放つべきことである。キリスト者の一人ひとりが、直接聴いた言葉をあらゆる所で語るために。
兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(ガラテヤ1:11~12)
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