石ころ

私はオネシモ

 

ピレモンの奴隷であったオネシモは、獄中でパウロに出会ってキリストの御救いを受けた。パウロは彼のことを「獄中で生んだ我が子オネシモ」と言って、ピレモンに執り成し彼の元に帰そうとしている。

 

むしろ愛のゆえに懇願します。このとおり年老いて、今またキリスト・イエスの囚人となっているパウロが、
獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。
彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています。
そのオネシモをあなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。(9~12)

 

パウロはオネシモを返す時に、彼が主人に負わせた負債を支払うことを直筆して、オネシモが負担を掛けた時の保証とし、心地よく迎えてくれるように懇願している。

 

「以前は役に立たない者」であったオネシモが、今はパウロが側に置いておきたいと思うほどの者となったとある。
オネシモがそのように変わったのは、パウロを通してキリストの愛に出会ったからである。神の愛には、何の役にも立たない屑をも、役立つ者として生まれ変わらせる力がある。

 

あなたが私を仲間の者だと思うなら、私を迎えるようにオネシモを迎えてください。
もし彼があなたに何か損害を与えたか、負債を負っているなら、その請求は私にしてください。(17~18)

 

パウロのオネシモへの心遣いは、キリストそのものだと思った。キリストは命をもって罪の負債を支払って、新しい人に生まれさせてくださった。十字架の従順によって執り成し、聖い者として神の前に置いてくださる。

 

「犬がワンと鳴くように人は罪を犯します。」以前お世話になった先生が、そんな話をしておられた。なんだか・・とても良く分かった。


人の心には底なしの闇がある。覗き込んで居れば魑魅魍魎が湧き出して来る。今日は昨日よりも良くなったと言っても、たった一つの誘惑によってその安らぎは崩れる。自分よりも罪深い人を見つけて、マシな自分を受け入れようとするがそれが何になろう・・。

 

 キリストの救いは、日々を導くみことばの保証によって、自分の心を見張る空しい作業から解放される。キリストの中に居る者は、罪とは無関係であり、目の前を通り過ぎるもろもろの罪を眺めるだけである。それはすでにキリストに拠って解決されているものである。

 

そのためにキリストは過去、現在、未来の罪の代価を支払ってくださった。人の罪の負債を負って十字架で流してくださった血潮は、一銭の罪の負債も残さず支払われていることを、何時でも、何度でも、みことばから確認して平安を得ることが出来るのだ。

 

わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。(ヨハネ14:27)

 

サタンに責められてひるむこともなく、心の闇を覗くこともなく、神が忘れて下さった罪を思い出すこともない。

目を上げて主の御顔を仰ぐように、罪から解かれた自由の中で聖霊に導かれ、感謝と賛美に溢れて生きるのだ。

オネシモがどれほど喜びにあふれて、パウロに仕えていたか・・容易に想像できるのである。

 

オネシモがしばらくの間あなたから離されたのは、おそらく、あなたが永久に彼を取り戻すためであったのでしょう。
もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟としてです。特に私にとって愛する兄弟ですが、あなたにとっては、肉においても主にあっても、なおのことそうではありませんか。(15~16)


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