石ころ

キリストの奴隷は神の財産(創世記47章)

 

 ヨセフは、エジプトの地とカナンの地にあった銀をすべて集めた。それは人々が穀物に対して払ったものである。ヨセフはその銀をファラオの家に納めた。(14)

 

ヨセフはエジプトにもカナンにも公正な態度で、ファラオに忠実に任された役割を果している。

 

やがてその年も終わり、次の年にも人々はヨセフのところに来て言った。「私たちはあなた様に何も隠しません。銀も尽き、家畜の群れもあなた様のものになったので、自分のからだと土地のほかには、あなた様の前に何も残っておりません。

どうして私たちが、土地と一緒にあなた様の前で死んでよいでしょうか。食物と引き替えに、私たちと私たちの土地を買い取ってください。私たちは土地と一緒にファラオの奴隷となります。どうか種を下さい。そうすれば私たちは生き延び、死なずにすみます。土地も荒れないでしょう。」(18~19)

 

彼らは命をつなぐために自由を差し出した。命は土地よりも、自由よりも大切である。ヨセフに信頼して交渉し、それによって人々は命を得た。

 

ファラオは奴隷を養わないと損害を受ける。奴隷はファラオの財産なのだから。しかし、ファラオの奴隷では命に限りがある。王である彼自身の命さえ、どうすることも出来ないからである。

 

 信仰には得るものと失うものがある。キリスト者は信仰によって、滅びることのない真のいのちをたまわる。それは比べようもない価値である。


塵芥と捨てるものは自分の計画に生きる命である。キリストの十字架を知って、自己中心の自由を、キリストの愛の前に捧げものとしたのだ。

 

キリスト者は、キリストの命によって買い取られた者であり、キリストのいのちに拠って生きるキリストの奴隷である。キリストの奴隷は神の財産である。力ある神はご自身のものを永久までも守られる。


キリスト者は、キリストからたまわったいのちの種を、世に蒔き続けて、やがて天に備えられた家に帰り、滅びることの無いいのちを生きることになる。

 

 主はみこころを生きるための必要を願い求めよと、すべてを備えて待っていてくださる。みことばを通し祈りによって交わり、祝福するための関係を結ぼうと、忍耐深い愛の中で今日を準備していてくださる。

 

エジプトの人々はヨセフに「あなた様の前で死んでよいでしょうか。」と交渉を繰り返している。キリスト者が、助け手である聖霊に自分の計画を差し出して、「みこころを成すために、必要を満たしてください。」と願い求めないことは、主を信頼していないからである。

 

その願いは、たまわったいのちを生きるための求めであり、主に忠実でありたいとの切実な思いに拠ることである。
神は御子をたまわるほどに愛してくださっている。願う者に、みこころを成し遂げさせてくださらないことがあろうか。

 

 キリストの奴隷の責任は、信頼してすべての備えを求めて交渉することである。求めなければ主の豊かさを味わうこともなく、自分の欠けだらけの計画の中で死に行くことになり、主に損害を与えることになる。

 

あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。(ヤコブ4:2)


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