石ころ

忙中閑あり


 血圧の低下を無視して・・いや、ときどき参っていたけれど、ゆっくり弱っていられないほど、主婦にとって梅雨明けは忙しいのだ。
こたつ布団などを洗い、羽毛布団などは干して片付けることがやっとできた。ほかほかに干せた、炎熱地獄のような布団との格闘だったけれど、なんとか押し入れに収めることが出来てホッ。お天気が安定していたのは感謝。

梅干しの夜干しも終わって元の瓶に収まった。今年の梅はとろりとやわらかく、とってもよい塩梅に出来上がった。塩1割というぎりぎりの分量なのでいつも気を遣う・・、

3年前の低塩梅干しがまだ保存してあるけれど、それを潰して鰹節と少しの御醤油を落としてのお茶漬けはとても旨い。
私は紫蘇をあまり入れないので色はイマイチだけれど・・。
紫蘇ジュースと新生姜の甘酢漬け、キューちゃん漬けなどなど・・そう、保存食作りも今は忙しい。


 そんな日々の中で、朝毎に少しずつみことばを読んでいた。今日はちょっとゆっくり・・。

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(Ⅰコリント2:14)

 あらゆる宗教には教えがある。それらは人の知性に納得できるものである。なぜなら、それは人の言葉だから・・。
しかし、みことばは神の霊によるから、霊によってのみわきまえ知ることができるもので、霊によらなければ伝わらないものである。

人の知性には理解できないことが多いからと言って、みことばは人の知恵によって言い換えることができるようなものではない。
誰がその答えをもっていよう・・。
霊の飢えを満たして養い、成長させることが出来るのは主のみである。

「あなたのみなしごたちを見捨てよ。わたしが彼らを生きながらえさせる。あなたのやも
めたちは、わたしに拠り頼まなければならない。」(エレミヤ49:11)


 聖霊による助けが不可欠である。それを人の知性によって読み解こうとするとき、キリスト信仰は変質してしまう。そう、イエスさまの姿を見失ってしまう。

何も知らずに入った信仰生活の中で、ある時、悩みの中に迷い込むことは喜ばしいことなのかも知れない。
それは、自身の欠乏に気付き、霊的な盲人であることを知ったのかもしれないから・・。

その気づきは、イエスさまの豊かな祝福をうけるために必要・・。欠乏を知り、飢えることがなくては人は求めない。まず、自身の必要に気付くことが絶対に必要なのだから。


あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。(ヨハネ16:24)

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