石ころ

じゃがいも (主のストーリー)


 我が家にとって、今年のじゃがいもには大きな意味がある。
種芋を植える季節は主人の癌騒動の真っ最中だった。私には、とても収穫に漕ぎ着けるとは思えなかった。
二種類の癌で、血液内科と消化器内科を行ったり来たりしている身には、とうてい先のことなど考えられなかったのが事実だった。

主人が熱心に畑の準備をしていたので、ネガティブな言葉を口にすることは避けていたけれど・・
たぶん入院している頃だろうし、私には看病と畑なんて出来るわけ無いから、たとえ植えてもどうしようもないのではないか・・、そんなことを心の底では思っていた。
それは、絶望しているのではないけれど、少なくとも今年は無理だろうと判断していた。

 ただ、主に在っては、今まで良いことでも悪いことでも、想像通りになる訳ではないことを経験していたので、それは、私の心をとても落ち着かせていた。
でも「信仰によって癒される」などと確信していたわけではないけれど・・。

私は主を恐れていたので、「主は、私の望みを叶えなければならない」なんて畏れ多くて考えることもできない。
ただ、主の憐れみ深いことは知っていた。
どのような明日が待っているのか、まったくわからなかったけれども、憐れみの主に身を委ねる時、すべての恐れや悩みを吹き飛ばした。

 これからブログにどんなことを書くことになるのだろう・・主人の苦しみを断りもなく書いて良いのだろうか・・、なんて戸惑いもあったけれど、主は平安を備えてくださっていた。

今、新じゃがを前にして夫婦でイエスさまに感動する。主人が自分自身で植えて、当たり前のように世話を続けて、自分で掘ってきた。
そうして「美味しい、美味しい」と、家族で楽しく食べることができるとはなんという幸いだろうと・・


 今朝、通読でエゼキエルを読んでいて、ああ、注意するべきはこのことなんだなぁ・・って、
「どうぞ私たちをこのような罪からお守りください。幼子のように心を空っぽにして、イエスさまの御前に居らせてください。」と祈る。
それは、子どもにも年寄りにも誰にでも出来ることなのだから・・。


「人の子よ。これらの者たちは、自分たちの偶像を心の中に秘め、自分たちを不義に引き込むものを、顔の前に置いている。わたしは、どうして彼らの願いを聞いてやれようか。(エゼキエル14:3)

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