エジプト王の献酌官と料理官が、その主君、エジプト王に対して過ちを犯した。
ファラオは、この献酌官長と料理官長の二人の廷臣に対して怒り、
彼らを侍従長の家に拘留した。それは、ヨセフが監禁されているのと同じ監獄であった。
侍従長がヨセフを彼らの付き人にしたので、ヨセフは彼らの世話をした。彼らは、しばらく拘留されていた。(1~4)
神は監獄でヨセフに、エジプト王の二人の廷臣に出会わせられた。彼らに預言の夢を見せ、ヨセフに解き明かしの機会を備えられた。
献酌官長はヨセフに自分の夢を話した。「夢の中で、私の前に一本のぶどうの木があった。
そのぶどうの木には三本のつるがあった。それは、芽を出すと、すぐ花が咲き、房が熟してぶどうの実になった。
私の手にはファラオの杯があったので、私はそのぶどうを摘んで、ファラオの杯の中に搾って入れ、その杯をファラオの手に献げた。」
ヨセフは彼に言った。「その解き明かしはこうです。三本のつるとは三日のことです。
三日のうちに、ファラオはあなたを呼び出し、あなたを元の地位に戻すでしょう。あなたは、ファラオの献酌官であったときの、以前の定めにしたがって、ファラオの杯をその手に献げるでしょう。
あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。(9~14)
ヨセフはこの時、献酌官長によって自分の無実を晴らすことができる望みを抱いたが、神のご計画は彼の無実を証することではなかった。
人間に頼るな。鼻で息をする者に。そんな者に、何の値打ちがあるか。(イザヤ2:22)
人の感謝も恩義も当てにはならない。人は自分のことで頭がいっぱいであり、心配事から解放された途端にそれらは忘れたいのだ。神の恵みに泣いて喜んでも、すべてが順調になったときにはコロッと忘れてしまう。
それは肉のものに過ぎない人の憐れである。
料理官長は、解き明かしが良かったのを見て、ヨセフに言った。「私の夢の中では、頭の上に枝編みのかごが三つあった。
一番上のかごには、ファラオのために、ある料理官が作ったあらゆる食べ物が入っていたが、鳥が私の頭の上のかごの中から、それを食べてしまった。」
ヨセフは答えた。「その解き明かしはこうです。三つのかごとは三日のことです。
三日のうちに、ファラオはあなたを呼び出し、あなたを木につるし、鳥があなたの肉をついばむでしょう。」(16~19)
預言は良いことも悪いこともそのままに語ることが、教えてくださった神に仕えることである。良い言葉を期待している人に、厳しい現実が来ることを伝えなければならない。
それは、自分を捨てて神のことばに従順する奉仕である。
ヨセフは兄たちに、自分について見た夢をそのまま語って憎まれ、父には諫められた。しかし、神が彼に語らせた預言は、彼らへの祝福の備えによることであった。聞いた者は謙遜になって、神をあがめるべきことであったのだ。
私たちはそれぞれ神のご計画を行う賜物を頂いている。そのためには最低でも1タラント(6000日分の給料相当)が与えられていると書いてある。
でも、神を「恐ろしい方」と言った人はそれを用いず、土に埋めて神の怒りを買った。十分すぎるほどに備えてくださる方なのに・・、恐れが神のみこころを無用なものとしてしまったのだ。
ヨセフの解き明かしは、三日目に良いことも悪いこともそのとおりになった。