見出し画像

石ころ

解放するために

次男と詩編51編を読んだ。
「この詩編では、ダビデは卑屈になってはいないね。」と言って、彼はⅡサムエル12章を開いていた。
そして、ダビデの犯した姦淫と殺人の罪によって、愛する子が主に打たれて死んだ箇所から、ダビデの主の裁きに対する態度について話合った。

ダビデの罪のために病気となった幼子のために、断食をして一晩中地に伏して、主に命乞いをしたダビデ。しかし、子が死んだとき彼は
「あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。」と告白した。
彼の悔い、主への哀願は、裁きが行われるまでの間だった。裁きが終わったとき彼は地から起きあがり、体を洗って身に油を塗り、着物を着替えて、主を礼拝した。

 人が、罪をどんなに深く嘆き悲しんだからといって、罪に対してなんのあがないにもならない。悔いの深さによって再び罪を犯さないと言うものでもなく、むしろ罪は夜昼離れることなく絡みつき、より深みに引きずり込まれることさえある。卑屈に身を縮めたり、人目を避けて隠れたとしても、神の御前に何のあがないにもならない。

自分自身がどういう者であるか、その罪の実体をありのままに見て、罪に対しては何も出来ない者であることを告白し、イエスさまのあがないの十字架に身を寄せる。私に出来ることはそれだけ、いや、それがすべての罪に対して、主の備えて下さった唯一の解決法。

十字架にはどんな罪に対しても、どんな人間に対しても、罪からの解放と神との回復が備えられている。このことは何という素晴らしい備えだろう。
そこにあるのは責め言葉や裁きではなく、完全に受け入れる無条件の愛。十字架に行くとき神の愛に出会うことができる。「自分を変えて出直してこい。」などと言われることは絶対にない。
主に服従するとき、ダビデのように罪を着替えて新しくされ、主のみことばを頂いて満足し、再び光の中で自由を楽しんで生きる者とされる。

 主が求めておられるものは何だろう。唯一キリストの奴隷であるということだけ。でも、そのことは私たちの生き方を不自由にして、縛りつけるものではない。引き替えに御子イエスのいのちをくださったほどに、守られている自由なのだから。
それは、自由の中で主を選び取る喜びが準備されているということ。

 人は犬がワンと鳴くように罪を犯す者だとsaltさんがいつも話される。罪は絶えず私たちを取り巻いていて、時に鋭く主に罪を示されることがある。でも、それは改めて責め裁くためではなく、その罪が解決されていることを明確にして解放し、十字架のあがないの偉大さと、そこで与えられる完全な守りによる自由を喜ぶためであり、そして、その自由は私だけの自由ではなく、交わりの中に広がってゆく自由である事を体験するため。
私の持つ自由を知らなければ、どうして兄弟姉妹の自由を実感することが出来るだろう。
十字架のあがないがどれほどのものであるのかを知れば、それだけ自由の広さを知ることができる。

 
神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。(詩篇51:10)

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事