「父よ彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです。」(ルカ23:34)
イエス様の祈りを一番側で聞いたのは、十字架の上の犯罪人であった。
イエス様の苦しみの時に誰か共に居たい人がいるだろうか・・、弟子たちも逃げてしまっていた。
「父よ。我が霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)
犯罪人のひとりは、イエス様の叫びを聞いた時、自分の命を委ねるべきお方をを知ることができたのだ。
百人隊長の「ほんとうに、この人は正しい人であった。」という、「正しい」とは誰にいのちを委ねるべきかを知って居たということなのである。
誰を信じ、自分のいのちを誰にゆだねるべきかを知ることが最も大切なことである。
誰を信じ、誰に聴いて生きるのか・・、終わりの時、誰に命を委ねるのか。
人は聞いても忘れることがある。みことばを忘れているということはその時、心を亡している時である。
女達は、墓にイエス様を尋ねた「なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。」と御使は言った、このことはイエス様のお言葉を忘れてしまっている行為であった。
しかし、「女たちは、イエスのみことばを思いだした。」
(後山師メッセージより抜粋)
イエス様は苦しみの時、私の近くに居てとりなしてくださっている。いつだって主は一番必要な人の側にいてくださるお方であり、罪人の側にいてくださる。そのことは本当に平安の源である。
みことばを聞いてもすぐに忘れる者である。いや、マリヤたちのように死者は墓に尋ねるという、過去においては当たり前の行動を反射的に取ってしまうのである。
聞いたみことばが常に生きて働き、それを現実生活の中で味わっていないと、信仰は二重になって分裂してしまうのだと思う。
今、「聖霊がみことばを思い出させ、その希望に留まらせてくださいますように。」と切に祈ろう・・。
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