「万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。
万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです」(コロサイ1:16)
「御子はそのからだである教会のかしらです。」(コロサイ1:18)
この事実に対して「アーメン」と言える人と言えない人に分かれる。それはいのちの分かれ目でもある。しかし、誰に対しても聖書が準備され、求める者には聖霊のお導きが備えられている。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
このことは人の知性には理解が難しいことである。造ったもののために、造り主がいのちを与えることなどあり得ないことであるから・・。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)
神の言葉の理解には生まれながらの賢さは通用しない。しかし、知りたいと求める者には死刑の間際にあっても、パラダイスにおいて生かすいのちとなる。
だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。(Ⅰヨハネ4:15)
此処は神によって備えられたキリスト者の座である。神の愛に留まり続けるなら福音は完了する。
ただ、それだけのことなのである。他になんの条件もない。
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