石ころ

神のもの (マルコ12章)




 イエス様は宗教家たちに、神様の財産であるぶどう園まで横取りするのはあなた達だと、そうしてわたしを神の息子と知った上で殺すのだと指摘された。
彼らの捨てた石、イエス・キリストによって今、神の国が異邦人である私たちにも開かれている。まさしく、
これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。(マルコ12:11)

 「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:28~31)


質問した律法学者は、この掟をどのように守ろうとしたのだろう・・。
大切なことは掟を知ることではない。それを完全に理解したとしても「神の国から遠くない」ところまでであって、

「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(マルコ10:15)のである。
「遠くない」と言われて彼らは言葉遊びを中断してしまった。どれほど近くても「神に国」でなければ意味はない。

 神の国に相応しい人をイエス様は献金箱の前で見つけられた。
貧しいやもめが銅貨2枚、献金箱に入れたのをご覧になった。それが生活費のすべてであることをご存じであった。生活費を捧げるということは命を捧げることである。彼女の主を愛する愛が、すべてを捧げるという行為となったのだろう。

主は今も生きて居られる。「先祖の神」ではなく、私たちは主と共に生きて「私の主」と一人ひとりが日々告白をするのである。
このやもめが明日生きるのは、生ける神によるのである。神のものを神に返すとはそういうことである。



 鉢に種を蒔いて育てた朝顔、毎朝外に出るのが楽しみだった。ツリー仕立てにしたのは単に一本の支柱で済むからという理由だったけれど、てっぺんまで沢山の花を咲かせてくれた。主人に「どや!」って自慢したかったなぁ・・。
それももう終わり・・今日撤去した。
まだまだ暑い盛りだけれど、私には夏が終わって行くような気分・・。

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コメント一覧

ムベ
お大事に
まあ、寝込むほどの風邪を引かれたのですか、
夏の風邪はしんどいですね。
お食事はとれましたか。

今年はこちらでは異常に暑い日が続きました。
京都ほどではないのですが・・

お隣のご主人が「暑さもちょっとマシになって来た。
これで今年も生き延びた。」なんて笑っておられました。
私もすごく同意しました。

本当に舐めたらアカン
まだまだ、残暑も・・
電気屋
夏の終わりは秋の寂しさとはまた一味違って
気ぜわしさの中で何かが過ぎ去って行くような物悲しさ
私は今日一日夏風邪で寝込んでおりました。
舐めたらアカン 夏の終わり
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