石ころ

産みの苦しみ(マルコ13章)




 石造りのすばらしい神殿に見とれるお弟子たち、しかし、
イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」(13:2マルコ)

人が切り出して積み上げた石の神殿は、どんなに立派に見えても崩される。それが神より奪った強盗の巣であればなおさら崩れる時が来る。
見つめるイエス様のお心はどんなだったろう・・。築き上げたものが崩されたときに、ハッと我に返って主を見上げた者は幸いだ。

 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。
「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」(マルコ13:3~4)

にせキリストに惑わされないように「気をつけなさい」と言われた。それは聖霊にみことばを思い出させて頂いて、みことばに照らして判断することが出来る。思い出すためにはいつも触れて蓄えておかなければならない。蓄えがなければ思い出せない。

あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。
しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。(マルコ13:9~10)


戦争の騒ぎや戦争の噂を聞いても慌てず「自分のことに気をつけていなさい」と言われる。
今この国に心を痛めることがあるけれど、それは世の事であり心を騒がせず自分の成すべき事に集中せよと・・。それは神の証の日のためであり、福音が宣べ伝えられるためである。私たちはその役割を果たす者、神の祭司なのだから・・。
証は聖霊によって備えられる。実に主を証するのは聖霊の働きである。私たちに必要なのはその方にすべてを明け渡すことである。

 そのときは家族に穏やかさを求めることは出来ないと書かれている。「わたしの名のゆえにすべての人に憎まれる」と・・。
主の守りは時に人のねたみを生むことがある。主の祝福も人を苛立たせることもある。困難な世で明らかに自分たちとは異質の者は排除される。イエス様がそうであったように・・。
しかし、その私たちのために苦難の日は短くされる。

「だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」
それらの日には、このような苦難の後、
太陽は暗くなり、月は光を放たず、
星は空から落ち、天体は揺り動かされる。
そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(マルコ13:23~27)


 これらの日のことを知らなかったとは言えない。知って居ながら気をつけていなかったことになる。
世の滅びと主の再臨はセット。救いは苦しい産道を通って産み出される。私たちは主に身を避けて備えなければならない。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイ7:13)

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マルコ3:31)

此処にキリスト者のすべての希望はある。この栄光の日を晴れがましく喜び迎えるために、最期まで堪え忍ぶ者は救われる。

 その日は誰も知らない。御子も知らないといわれる。その日を「知る」と言う者こそ偽キリストであることがわかる。それは今日、明日かも知れないのだ。
「気をつけなさい。目を覚ましていなさい。」と繰り返された。
「主よ。来てください。」栄光のキリストの姿を待ち焦がれる者はとても眠ってはいられない。

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