石ころ

聖霊に拠ってのみ聖書は解き明かされる

 

イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。(Ⅰヨハネ4:3)

 

サタンもみことばを語る。しかし、サタンは決してイエス・キリストを「私の主」とは呼ばず、真理を解き明かしているようでも、聖霊に拠らないそれはみこころではない。

 

サタンは私たちに賢い近道を教える。
しかし、聖霊は手間暇をかけて、キリスト信仰のうちのある日々の歩みの中で成長に導き、手塩にかけて育ててくださる。主は愛深く忍耐強いお方だからである。

 

夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。(マルコ4:27)

 

失敗をし、恥をかき、時に積み上げたものを崩される。しかし、そこに主の御手が伸べられてあり、この経験はとても甘い。後に、そのすべての日々に共に居てくださったことを悟るからである。


大切なことは成功や完成ではなく、主を求める日々である。その中で培われる信仰は、自分の何かではなくキリストに対する信頼である。

 

主は、私たちがみことばが真実であることを、信仰生活の中で経験して真に知ることを待っていてくださる。それは他人が関わることができない部分であり、試行錯誤の中で聖なるものを選び取る訓練の中に在る。

 

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(Ⅰコリント2:14)

 

もし、聖霊によらずに聖書を読むなら、どのようにも自分に都合のよいように用いることができ、多くの新興宗教も聖書の言葉を用いている。
哲学者も小説家も賢い言葉として好きなように用いる。その言葉は生まれながらの人にも分かりやすく、心地よいものとなるからである。

 

原語そのものイエスさまのメッセージを、それも奇跡付きで聞いた人々の中に、一体どれくらいの人が信じることができたのであろう・・。弟子を見る時よくわかることである。
みことばは助け主なる聖霊に導かれなければ悟り、それを生きることはできないのである。

 

私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。(Ⅰコリント12:3)


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