石ころ

ラハブによってボアズを生み(ヨシュア記2章)

 

 ヌンの子ヨシュアは、シティムから、ひそかに二人の者を偵察として遣わして言った。「さあ、あの地とエリコを見て来なさい。」彼らは行って、ラハブという名の遊女の家に入り、そこに泊まった。(1)

 

「なぜ遊女の家なのか?」「主のお導きだから」ただ、それだけなのだろう。御声に導かれるままに在るなら、何処であろうと身を守ることが出来る。人を恐れて躊躇するなら、永遠のいのちを失うことになる。

主がラハブに良い計画をもっておられたのだ。彼女が遊女であることによっても変わることの無い計画である。ラハブは主に応答するようにして、命を惜しまず偵察の二人を守った。

 

 イエス・キリストの系図が記されていて、始めて新約聖書を開いた時、冒頭の馴染まぬ名前の羅列に、聖書というものの意味のわからなさを思う。
しかし、めげずに聖書を読んで行くときに、その名の一つ一つに在る主の忍耐深い祝福を知るのである。

 

人の家系図は、優れた家系であることを証明するために作られることが多い。罪人や人生に失敗した者や愚か者を並べ立てるために、わざわざ系図を作る者はいない。

しかし、イエスの系図には罪人や社会的弱者や愚かさがそのままに書かれている。処女より生まれたイエスは、生物的にその血を引いているわけではないが、わざわざ冒頭にそのような事実が記した神の意図は、キリストがどのような人を選ばれたかを現わしている。

 

アブラハムもモーセもダビデも、罪も弱さも愚かさもあるがままに聖書には書かれてある。その系図にラハブの名も記された。
キリストが人の弱さの中に、愚かさの中に、罪の中に来てくださったことが、キリスト紹介の初めに記されているのである。

 

イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マルコ2:17)

 

イエスは罪に病んでいる人に近しく来てくださる。
夫を5人も取り換えたサマリヤの女に来られた時のように、謙って水を求め近づいて、人を恐れていた女に救いの奥義を語ってくださるのである。

 

神はラハブに、偵察の二人を通して近づいて良い働きをなさせ、神に信頼する告白を備えてくださった。脅さず罪を暴いて責め立てず、神を愛する愛を引き出して下さる。それが神の愛である。

 

罪を完全に洗いきよめて、恐れずに神を愛する信仰に導き、彼女の中からイエスの祝福に与る子が生まれる。それはキリストの十字架がどれほどにか完全に、過去の歴史から未来に至るまで、罪を贖うものであるかを示している。

 

ラハブによって主が証してくださったことは、主は罪人をも用いてくださるということである。
自分で解決できない罪や汚れを、キリストの十字架の血潮によって完全にきよめ、挫折には神の良い計画に拠って祝福に導き、愚かさにはみことばを語って神の賢い力をくださる。

助けを必要としている病人をきよめて立たせ、やがて一人ひとりの名を呼んで、永遠のいのちの祝福に招き、永遠に御許に置いてくださるのである。


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