キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。(18)
キリストの十字架のあがないが、「人々の身代わりとなって」ではなく、「私のために」と個人的な感謝になった時、私は救われた。
それは初めに神の選びに拠ることであり、聖霊の導きによることであって、救われるとはそれほどに厳粛なことであった。
聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。(Ⅰコリント12:3)
聖いイエスさまの御体が十字架で裂かれ、血を注ぎだして墓に葬られたことは、神の御前には、私の罪が処刑されたことであり、そのことを信じた者の罪が精算されたことである。それゆえキリストを通して、義なる神さまに受け入れられ神の子とされたのである。
その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。
昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。(19~20)
キリストの霊が、不信仰によって囚われている霊たちに語られた内容は書かれていない。ただ、ノアが伝えた神のことばに従わず、何が何だかわからずに溺れて死んだ彼らには、聞かなければならない言葉がある。ノアが伝えたことばが、真実な神の言葉であるということである。
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。(ローマ8:16)
誰に対しても、私たちが神の子であることは、自分で証することでは無く、それは何処までも神さまがしてくださることである。
私たちは日々主に聴いた言葉を、ノアのように着実に行うだけなのである。その成果の舟に家族は、信仰を持って乗り込むことを導いてくださる。
そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。
キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。(21~22)
アーメン