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石ころ

日曜日


 今日、礼拝中の教会の下を単車で通り抜けてお買い物。こんな事をするようになるなんて数年前には考えられなかった・・。
あの頃は日曜礼拝、祈祷会を守り、そっと献金をし奉仕も黙々としていた。
聖書はあやまりがないように解説書を通して通読をし、祈りの要請にはたとえ知らぬ人の事柄であっても祈り、教会員として私の分をこなしていた。

あの頃のことは、私の中の懐かしい歴史ではある。そうして、主は沢山の祈りにも答えてくださった。
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」 (詩編103:2)

でも、徐々にそのような信仰は、主によって追い詰められて行き、現実にはすべてがちぐはぐなものになって行った。
何時からか私の心の奥には、主の「no」が聞こえていた。そうして、何がnoなのかもわかって来ていた。

「形にあぐらをかくことを止めなさい。お前は何一つ選択しては居ない。何も捧げては居ない。人に頼ることを止めなさい。人の組織にしがみついていてはいけない、自分の責任によって選び取りなさい。選択によって自分の十字架を負いなさい。わたしだけを頼みとしなさい。」と・・

そうして20年以上居た母教会を出た。あれやこれやと問題はあったけれど、私には関係のないことだったが、それ以前から主によって、私の居場所はそこにはなくなっていたから・・。
教えられた通りにした結果の責任は教えた人にある。言われたとおりにした結果の責任も言いつけた人にある。

しかし、自分の判断でしたことはすべて自分の責任であり、その結果はひとりで負うことになる。だから、自分自身で選び取ることは何であれ恐ろしい。
もっとも、主に従順したときにはひとりではなかった。いつだってイエスさまが共に居て下さった。だから、一度そのことを経験するとき、もう恐れることはないのだけれど・・。

信仰生活は、人に教わり誰かが責任をとってくれる安全圏のなかで終始するものではない。そんなつまらないものではない事を知った。
年寄りにだって、主に賭ける勇敢な人生が経験出来るのであり、主を独り占めしていると勘違いするほどに、日々神の祝福を味わうことができるものである。

 自分の責任で聖書を読むとき、聖霊の導きにより頼む。そのときに読み間違ってしまったとしたらその責任は聖霊?でも、聖霊は間違えないのだから、それは聞き間違った私の責任なのだけれど・・。
私を知り尽くす賢い聖霊の介在の中にあるのだから、その間違いを通して、主が時間と手間を掛けて、私に大切な真実を知らせて下さる道中なのかも知れない。それは簡単には分からないけれど・・。

しかし、ひとりでその作業をするときは、誤りあり、赤っ恥あり、人を傷つけてしまうような失敗もあり得る。
イエスさまが共に居て下さるからと言って、その時矢面に立つのは自分自身でしかない。しかし、それすらもイエスさまの赦しの中にあって、自分自身を自分で守ろうとさえしなければ、主が私を育てて下さる。主はご真実なお方なのだから。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いて下さる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル11:6)

でも人の導きを頼りにしていては、少々の違和感があっても聞き咎めないという逃げ癖が付いてしまい、主が命じておられる事柄に対して耳をふさぐようになってしまう。
ペテロでさえも人を恐れると、主を否むところに落ちて行った。

私初めはそんなことをしていた。
伝道で、その手引き書を用いることに違和感があったにもかかわらず、牧師さんに勧められるままに漫然と用いてしまい、大切な時を浪費してしまったことがある。
あの時、聖霊の導きは自分の言葉で伝えなさいだった。

でも私は、聖霊のことばに従うよりも人に従った。神を恐れず、人を恐れて伝道をするなんてなんと愚かなことだろう・・。私の恐れは自分の無学にもあった。偉い先生が書かれた本の方が良いに決まっている。「私は教え方なんて誰にも習ったことがないのだから・・。」と・・。

しかし、聖書はそれを負うときに、開かれて行くものであることを後に知った。知っているから語るのではなく、伝えようと負ったときに必要が満たされ、語る言葉が与えられると言うことを・・。

言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。(ルカ12:12)

信仰生活は生きているすべての時が主と共にあって、そのいのちのど真ん中にあり、曜日でもなく、何時からでもなく、何をしたからでもなく、何をしないからでもない。
すべての自由の中で、ただ、命のある限り「アーメン」と主を選び取る、その準備の連続なのだと今思っている。

あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。(Ⅰヨハネ2:27)

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コメント一覧

石ころ
エシュコルさんへ
本当にそうですね。
でもね、信仰のことに関してはまるで子供のようなんです。

この世のことには、とても用心深く、疑い深い者がまるで子供のように、言われるままに、なんの計算もなく、リスクを負って従ってしまうのはどうしてなのでしょうね。
だから、あのような書き方になったのです。

それは、そのように付いていった時、イエスさまは何時も、すべての責任を取って下さったからです。
捨てて孤児にはしないというお言葉の通りです。

海千山千の年寄りでも、イエスさまの御前では赤子のように居られる喜びがあるのです。
エシュコル
子供ならば・・・
http://hswofach-wtl.jugem.jp/
それでも良いのでしょうが、ある程度大きくなった人が「教えられた事を素直に聞いて悪い結果になったのは、程度の違いこそあれ、両方の責任」でしょう。
石ころ
ワッフル旦那さん コメントうれしいです
「それもどれほど自分が愚かな者であるかを知るために主が与えて下さった機会としてくださった様に感じている。」

アーメン。私はそのことを繰り返し繰り返し教えられています。主は忍耐強い教師ですね。本当に感謝です。

素晴らしいみことばを教えて下さって心から感謝致します。

ワッフル旦那
「教えられた通りにした結果の責任は教えた人にある。言われたとおりにした結果の責任も言いつけた人にある。」

アーメンです。
イエスにしたがって、失敗したことは唯の一度もありません。
そして、自分勝手に行って過ちを犯したことは数知れずあります。
(じゃあなんでそれをするのと、思うけど)
ただそれもどれほど自分が愚かな者であるかを知るために主が与えて下さった機会としてくださった様に感じている。

”神が、キリスト.イエスに結ばせることによって、私たちを上に招き、与えて下さる賞を得ようとしているのです。
ですから、私達信仰に成熟した者は皆、この事を念頭に置きましょう。もしあなた方が、何か別なふうに考えているなら、きっと、神がその事をも明らかにしてくださいます。”

ピリピ3.14-15フランシスコ訳ですが、、
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