石ころ

神の子ども (ヨハネ1章)




この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(ヨハネ1:12~13)


 みことばを文字通りに頂いたからこの人々の中に私も入っている。確かに血筋に拠ってではない。もっとも、イエス様の十字架の血に拠るのだけれど・・。
自分の熱心という肉の欲求や意欲でもない。私には頑張って神に近付こうなんて熱心も意欲もない。そんなの初めから無理。

しかし、今、現実に私は神の子どもとされている。それは、ただ、神に拠ることだという・・。だから、こんな私でも神の子どもであり続けることが出来るのだ。
主はご自身の真実さゆえに、約束を破ることがお出来にならないから・・。そのことにより頼むのは小狡いと思う。でもでも・・どこまでも私は望みのすべてを主に根拠を置くしかない。

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。(Ⅱテモテ2:13)

ナタナエルは言った「ナザレからなんの良いものが出るだろう」
自分の中を見ると「私のどこにそのような良いものがあろう。神の子ども・・笑うよ」と思う。確かに私の中には良いものは何も無い。ただ、主が良きものを持って居られるということのみ。

「来て、そして、見なさい」ピリポはナタナエルをこのように誘って、イエスに連れて来た。
主に来て、そのみことばのご真実を生活の中で経験した。賭けるようにより頼んで来たみことばの真実を、主は幾度も見せてくださり不思議な平安も賜った。
そうして・・いつしかあり得ないようなことも文字通りに信じていた。

再臨も、永遠のいのちも、癒しも満たしも・・すべて聖書に書かれていることが、自分にも起こると信じて疑わない。
みことばに何も足さず何も引かず。賢く脚色することもなく、肉の欲求によって演出することもなく。神の子どもであることに安らいでいる。

私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。(ローマ8:16)

 イエス様はナタナエルがいちじくの木の下に居たことを話し彼を知って居ると言われた。それは彼が「ナザレからなんの良いものがでるだろう」と言ったことも知って居るということであった。
しかし、主はそのことを責めたり、恥をかかせたりはなさらない。「偽りがない」と言ってくださった。そう、イエス様は唯一偽りはお嫌いなのだ。

イエス様は私のしたこと、話したこと、思っていることのすべてを知って居られる。知って覆っていてくださるから平安があるのだ。
「先生。あなたは神の子です」ナタナエルが思わず告白したのは、その愛に触れたからなのだ。

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