石ころ

主に信頼して罰さえも平安 ①(申命記31章)

 

モーセは行って、次のことばをイスラエル全体に告げて、
彼らに向かって言った。「私は今日、百二十歳だ。もう出入りすることができない。主は私に「あなたはこのヨルダン川を渡ることはできない」と言われた。(1~2)

 

モーセはこの日が決して動かないことを覚えて、主のご計画を正確に民に伝えた。彼は明日のことを主に差し出して命を委ねており、今は、民にある主のご計画、ヨシュアをリーダーとしてヨルダン川を渡って行く旅を励まし、彼らの将来を伝える。

 

それは彼が老いて弱ったからではなく、彼の目も足も衰えてはいなかった。
彼がメリバで、主の命令に従って岩に命じて水を出すことをせず、過去の経験に依って岩を打ったことにより、約束の地に入ることを許されずこの地に命を終える。

 

彼はそれまで民のことを執り成して、主に交渉出来る関係を築いて来たが、自分のことに対しては一切の異議申し立てをすることはなく、主のみことばに従順したのである。

 

神に信頼する者はみことばがどのような内容であろうとも、愛から出ていることを知っている。厳しく扱われてもそのままに聴き従うのは、神が良い方であることを経験したからである。たとえ罰せられようとも、主に信頼するモーセは平安なのだ。それゆえに自分を心配することなく、最後まで勤めを全うすることが出来たのだ。

 

人は一度の死を通るものであって、目的を目の前にして召されることもあるとモーセは教えている。それは罰せられる理由があろうと、そうではなかろうと主のみこころによることである。雀の一羽さえも神に覚えられずに死ぬことは無く、すべての命は創造主のものであるから。

 

モーセがその重い役割を全うして、労苦から解放されたことは事実である。人の目には罰せられて不幸に思える死であっても、主に信頼し通す時にすべては祝福となるのだ。彼は神の手によって葬られ、キリストと共に天に在ることが聖書に記されてある。


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