石ころ

主との関係にあって罰さえも平安②(申命記31章)

 

あなたの神、主ご自身があなたに先立って渡って行き、この方があなたの前からこれらの国々を根絶やしにされ、あなたはこれらを占領する。ヨシュアが、主が告げられたように、あなたに先立って渡るのだ。(3)

 

モーセが最も伝えたいことは、ヨシュアが主に告げられて民に先立つことである。モーセを失った民の平安のために主のご計画を伝えた。

 

神が「国々を根絶やしにされる」このみことばに人は激しく抵抗する。神に逆らうのは悪を行った時よりも、人の正しさに拠ることの方が根深い。正義をかざす者が悔い改めの出口を見出すことは、聖霊の介入なしには不可能である。

 

 サタンが、なぜエバに善と悪を知り賢くなる木の実を勧めたのか、人に自分で善と悪を判断する賢さを与えたのか、此処にサタンの恐ろしい知恵を見ることが出来る。

 

禁断の実を食べたときから、アダムたちは神の聖さと義による統治から距離を置くようになり、善悪を自分で判断して独立した。アダムの前に広がる道は戻ることの出来ない一方通行となった。なぜなら、悔い改めることが困難な「善」が仕込まれたからである。

 

 独裁者が企むジェノサイドは最悪の罪である。しかし、神が定められたことは造り主の愛から発したことなのである。聖霊に拠らなければこの違いを見分けることは出来ない。

 

創造主は人を生かすために、死に至る罪に侵され回復の見込みがないほどに腐敗している者を切り捨てて、救いの望みのある者を守らなければならない。そうでないと人類は悔い改めぬ罪のゆえに、わずかな時の間に絶滅する。

 

それは造り主なる神の義と聖に拠ることであり、主は悔い改める望みのある者に、罪を癒やす医者としてキリストを遣わせてくださった。創造主の権威に服する従順は、神との平和の中で永遠に生きるいのちをたまわるのだ。

 

 創造主だけが、愛する者と憎むべきものを分ける権威を持っておられる。このことを人は弁えて謙遜であらねばならない。この謙遜が御子をたまわるほどに愛されている者の捧げものであり、神に祈ることが出来ることは愛されている証である。恐れずに御前に近づくことが出来るのは、神が愛してくださっているからなのだ。

 

主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」(出エジプト33:19)

 

人はみことばを裁くほどに賢くなり、これを罪というのである。このことは創造主に対する反逆である。しかし、神はこのことがサタンの仕掛けたことであるとご存じなので、サタンの罠から救う備えをしてくださった。

 

キリストの生き方を通して神の愛を現わし、十字架の血に拠ってキリストを信じる者の罪を洗って聖くしてくださった。
信じた者には聖霊がうちに住んでいてくださり、日々みことばにある神の愛を解き明かし、霊の目を開いて、創造主に服従する幸いを味合わせ、永遠のいのちの喜びをくださっているのである。


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