また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。
また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか」と言っているのを見た。
しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。
巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。(1~4)
ヨハネが激しく泣いた悲しみとは何だろう。
この封印が解かれるのをこれほどに待ち望んでいるのはなぜだろう
この巻物がどういう望みをもたらせるものだと思っていたのだろう
今、教会であまり黙示録が重んじられないこととヨハネの涙が重なった。もし、黙示録を無視するならヨハネが涙するのではないか・・。
知らないことばかりだからワクワクとして、主の備えておられるものを霊の耳で聞き、霊の目で見たくて黙示録の戸を叩いている。今、開いてくださるのは主。
ひとりに一部分でも解かれるなら、皆でそれを聴いて語る時、ジグソーパズルが完成して行くように、神のことばの全体像を見ることができるだろう。互いのうちにおられる御霊の働きによって・・。
ヨハネの悲しみは、主を知ることが絶たれてしまったと感じたことによる。それは、すべての望みが此処で終わったことになり、島流しになってキリストにある勝利も見ず、伝えるべき励ましのことばも持たないままで終わるのだ。
彼にはどうしても知らなければならなかったのだ。封印が解かれて永遠の神の約束を聴いて、迫害の中にある教会にゴールに至る福音を届けなければならなかったのだ。
巻物が開かれ神のことばが語られる事によって、神のことばは地に事実となって現れる。
「光あれ」と語られたとき光が生まれる。「あなたの罪は赦されました」と聞くとき罪は赦されるのである。
神のことばである巻物が封じられたままであるなら、世に神の介入はなくなることであり、ヨハネには何の望みもなくなるのである。
キリスト者の望みは、ただ、神のことばにあり、みことばから目を反らせるなら永遠に至る望みを失ってしまうのである。