主はモーセに告げられた。
「イスラエルの子らに命じて彼らに言え。あなたがたがカナンの地に入るときには、あなたがたへのゆずりとなる地、カナンの地とその境界は次のとおりである。(1~2)
主はイスラエルの民に支配するべき地境を定められる。それは彼らが世に誘惑され、偶像礼拝に堕落することからの守りである。境界の定めがない所には侵略があり、肉の力が支配していて平和がないのだ。
キリスト者の境界はみことばである。主に聴き続けて暮らすことで、何処にいても主の守りの中に生きるのである。
主がモーセを呼び出して用いられた。神から発しことにモーセはためらいつつ身を捧げた。そんなモーセに主はいつも語り続け、お交わりの中で役割を全うさせられた。
臆病だったモーセが勇者として成長したのは、彼を知り尽くす神のご真実によることである。神から発したことが神によって成り、神を知らせる者に至らせた。
それは彼がみことばに従順する中で、主を経験したことであり、いつも何時も主と共に居て、御声を聴きつつ関係を深めていったのだ。
主はみことばに応答する者と共に歩んで、その生涯に関り続けて成長させ、神の良い計画を成し遂げさせてくださる。
仮にそれが殉教であってもそれほどに栄誉な人生が無いのは、その神の良き計画だけが永遠に残るものだからである。
モーセの旅は人類の歴史に印され、神が愛する者を永遠の救いに至らせた。それがモーセの計画ではなく神の計画であったからであり、モーセが生涯を通して従順したからである。
イスラエル人の中からキリストが生まれ、今はその救いは全人類に及んだ。キリストは十字架ですべての人の罪を負われた。その歴史的な事実を信じた者はキリストの血潮に罪を洗われて、聖くされ神の子の特権をたまわるのである。
そんなことはあり得ないことであるが、神からのたまものとはそういうものである。
神は、私たち一人ひとりに良い計画をもって母の胎で組み立てられた。生まれ出て良いこと悪いことを通して主を知る環境が備えられ、みことばに出会った時に聖霊に触れられて信じ、信仰を告白するのである。それは神のわざである。
あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。(ヨハネ15:16)
歴史上の事実であっても、自分の罪を負われるキリストを見てはいない者が、「確かに私はキリストによって罪を赦された」と確信を得るのは聖霊の導きであり神の備えである。私たちの信仰はたまものなのである。
どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、
また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。(エペソ1:17~19)