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石ころ

今朝のみことば (姦淫の女)




 姦淫の現場で捕らえられた女が、イエスさまの前に引きずり出されてきた。捕らえてきたパリサイ人や律法学者は、その罪に対する怒りによってそうしたのではない。
彼らはその罪を利用してイエスさまを試そうと、チャンス到来と喜んで連れてきたのだ。

訴えを聞いても、身をかがめて指で地面に何かを書いておられたイエスさま。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」十字架の言葉が思い浮かぶ・・。

律法通りに石打にしようと迫る彼らは、いよいよイエスさまに裁きを言い立てて止めなかった。
赦しを説かれるイエスさまの愛と、裁きを与える律法は互いに矛盾している。彼らはそこに罠を設けたつもりなのだろう。

でも、養育係としての律法を人に与えられたのは主である。
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。(ガラテヤ3:24)


誰も律法によっては救われ得ず、それは裁いて死をもたらせるだけのものであることを、彼らがもし真実であれば悟ることができたであろう。
そうして此処で、イエスさまに罪を指摘されても、こっそりと逃げ去るのみで悔いることはなかった。

救われたのは罪の現場で捕らえられたという、逃げ隠れすることの出来ない罪をさらけ出された女だけであったことは、なんと皮肉なことだろう・・。
裁いていた彼らは、自分自身がすでに裁かれていることに気づくことさえない。

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)
イエスさまは、このことばを彼らのように得意になって言われたのではない。彼らが悟るのをじっと待っておられたのだから・・。

彼らが去って、イエスさまは裁きの座に残された女にお目を注がれた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
「わたしはだれをもさばきません」とイエスさまはいわれる。裁く方がおられる。イエスさまはその御父に従順されるだけ。

「あなたがたのうちで罪の無い者が・・」そのみことばを聞いた時、そうして、イエスさまの裁きの温かさに出会い、まっすぐに向けられた御顔を見上げたとき、彼女の渇いた心は満たされ深い悔い改めに導かれただろう。

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
悔い改めと感謝をもってイエスさまを慕う者が、罪を犯し続ける事はない。主のあがないの中に居て、なを罪を犯し続ける事はありえないのだから・・イエスさまはこの女の保証をしてくださった。

その御真実さのゆえに、十字架刑に死んで律法を全うしてくださったイエスさま。
イエスさま。あなたの前で罪が暴かれることは幸いです!
「あなたの裁きの御座は、あなたの御顔を慕い求める私に甘いのです。」

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