ヒルネボウ

笑ってもいいかなあ? 笑うしかないとも。
本ブログは、一部の人にとって、愉快な表現が含まれています。

腐った林檎の匂いのする異星人と一緒  20 二つの時間

2021-06-28 14:52:28 | 小説

   腐った林檎の匂いのする異星人と一緒

       20 二つの時間

 木曜日の遅い朝、柱時計のねじをきつく巻いた後、ジャンヌは庭に出て日時計を見る。

(終)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏目漱石を読むという虚栄 第三章 目次

2021-06-27 09:31:25 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

     第三章 目次

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3100 死に後れ

1 『だくだく』

  『粗忽長屋』/『千早振』/神経病

2 自己嫌悪

  『金明竹』/「アカチバラチー」/『昭和維新試論』 

3 「直感」とか「直覚」とか

「近づき難(がた)い不思議」/「馬鹿気ている」/論より証拠

 4 窮屈な思想家

「貧窮問答歌」/空っぽの「思想問題」/「世間に向って働らき掛ける資格のない男」

5 いんちきな「思想家」

『貧困の哲学』と『哲学の貧困』/『国家制度とアナーキー』/自分の影

3200 さもしい「淋(さび)しい人間」

 1 「一種の失望」

  「何処かで見た事のある顔の様」/「相手も私と同じ様な感じを持って」/認知的不協和 

2 正体不明の「先生」

Dの代役/「先生の顔が浮いて出た」/「一人の西洋人を伴(つ)れて」

3 『運命論者』

額縁であるべきP文書/「運命の恐ろしさ」/みゆき現象

4 「その妻を一所に連れて行く勇気」

「代表者」/『みれん』/教訓の色眼鏡

5 隠蔽体質

パシリ・メロス/「教育相当の良心」/「トチメンボー」

3300 明示しない精神

1 逆説的勧善懲悪主義

『文芸と道徳』/『坊っちゃん』の誤読/ゲゼルシャフトとゲマインシャフト

2 スタイル

  「奇々怪々の妖魔文章」/「よいどれ語」/スキゾフレニア

3 受動‐攻撃性格

「いや考えたんじゃない」/言外の意味/素読の弊害

4 「覚悟」宣言の前後

『転失気』/「現代一般の誰彼(だれかれ)」/『茶の湯』

5 「覚悟」宣言

暗流の「その人」/『猫の皿』/「金魚売らしい声」

3400 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」

1 「自由」について

自由・平等・博愛/人間は自由か/「自他の区別を忘れて」

2 「独立」について

「インデペンデント」/傲慢/「オリヂナル」

3 「己れ」について

『プライドと偏見』/利己主義と利他主義/許容使役

4 「自分を呪(のろ)うより外に仕方がないのです」

現代病/『イロニーの精神』/「二人の間にどんな用事が起ったのか」

5 『山月記』

「我が臆病な自尊心と、尊大な虚栄心と」/人虎伝ブーム/カニバリズム

3500 日本近代知識人のエゴイズム

1 いけない「イゴイスト」

つるしあげ/エリート/エゴチスト

2 日本近代個人主義思想の限界その他

個人主義と利己主義/エゴイズムと私情/空き巣狙いの個人主義

 3 個々人の主義

「撲殺し合う」/民本主義論争/ポピュリズム

4 「現代」は意味不明

現代あるいは近代/近代精神/「母のない男」

5 「義務」と「権利」

「個人主義の淋しさ」/「追窮する勇気」/『権利のための闘争』

(終)

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏目漱石を読むという虚栄 3550

2021-06-25 16:48:31 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3500 日本近代知識人のエゴイズム

3550 「義務」と「権利」

3551 「個人主義の淋しさ」

 

Nの考え方は、しばしば、混乱した。誤った前提から出発し、袋小路に入る。普通の人なら、前提を疑うものだ。しかし、Nは疑わない。むしろ、袋小路を思想の深さか何かに見せかけようと頑張る。軽薄才子のスタイルだ。そのことに気づかない人々も軽薄才子だ。

袋小路とは、たとえば、「そこが個人主義の淋しさです」(『私の個人主義』)といった宣言の「そこ」だ。この袋小路に入ることになった前提は、次のような戯言だ。

 

<元来をいうなら、義務の附着しておらない権力というものが世の中にあろうはずがないのです。私がこうやって、高い壇の上からあなた方を見下して、一時間なり二時間なり私のいう事を静粛に聴いて頂だ(ママ)く権利を保留する以上、私の方でも貴方方を静粛にさせるだけの説を述べなければ済まないはずだと思います。

(夏目漱石『私の個人主義』)>

 

「義務」と「権力」の対比は不可解。次の文では「権利」が出てくる。「権利」の本来の意味は「権力と利益」(『日本国語大辞典』「権利」)だ。近代日本語の「権利」は転用語で、“right”の訳語だ。「権力」を英訳すれば“power”だろう。“right”には〈正義〉という意味があるが、“power”にはない。そのことを、Nは軽視していないか。

「保留」は〈保有〉の間違いだろうが、〈行使〉が適当。「はず」は「義務」か。

〈権利〉と〈義務〉は一対一対応しない。〈自然権〉に対応する義務があるか。

「義務」についても同様。

 

<「孤立義務(=旧憲法下の、権利と対立しない、納税義務・兵役義務の類)」

(『類語例解辞典』515-20【対立(たいりつ)/鼎立(ていりつ)/確執(かくしつ)】)>

 

Nは、誤った俗説を前提としたため、袋小路に入った。二種の「権利」の意味の混同がしくじりの原因かもしれない。こうした混同は「明治の精神」の淵源かもしれない。

 

<ふつう、人Aが人Bに権利をもてば、BはAに義務をもつことを意味する。だが、この関係はつねに成立ちはしない。

(『現代哲学事典』「権利と義務」杖下隆英)>

 

Nは、講演会における講師と聴衆という特殊な関係を、人間関係の全般に適用しようと企み、混乱してしまった。会場の出入りが自由であれば、つまり、聴衆に退場の「権利」があれば、講師が「済まない」と思う「義務」や何かは生じないない「はず」なのだ。

彼は、不平等な関係を「元来」として設定してしまった。上下関係以外の人間関係、いわゆる自由で対等な人間関係について、誤った印象を抱いている。自他を自分の偏見や謬見の枠に閉じ込めてから、その枠内にいる自分に厳しくし、他人に優しくしてやっても、他人は喜ぶまい。その程度のことさえ、Nには想像できない。夏目宗徒にも想像できない。

 

 

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3500 日本近代知識人のエゴイズム

3550 「義務」と「権利」

3552 「追窮する勇気」

 

「権利」という言葉は、『こころ』においてブラックボックスのように使われている。

 

<然しこれはただ思い出した序(ついで)に書いただけで、実はどうでも構わない点です。ただ其所にどうでも可(よ)くない事が一つあったのです。茶の間か、さもなければ御嬢さんの室(へや)で、突然男の声が聞こえるのです。その声が又私の客と違って、頗(すこ)ぶる低いのです。だから何を話しているのかまるで分らないのです。そうして分らなければ分らない程、私の神経に一種の昂奮(こうふん)を与えるのです。私は坐(すわ)っていて変にいらいらし出します。私はあれは親類なのだろうか、それとも唯(ただ)の知り合いなのだろうかとまず考えて見(ママ)るのです。坐っていてそんな事の知れよう筈(はず)がありません。そうかと云って、起(た)って行って障子を開けて見る訳には猶行(ママ)きません。私の神経は震えるというよりも、大きな波動を打って私を苦しめます。私は客の帰った後で、きっと忘れずにその人の名を聞きました。御嬢さんや奥さんの返事は、又極めて簡単でした。私は物足りない顔を二人に見せながら、物足りるまで追窮する勇気を有(も)っていなかったのです。権利は無論有(も)っていなかったのでしょう。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」十六)>

 

「これ」は、この少し後にも出ている「私の客」のこと。「これ」は、「どうでも構わない点」ではない。「実は」「これ」のせいで「どうでも可(よ)くない事」が起きたのだ。

「茶の間」には静の母がいるのだろう。「室(へや)で」は〈「室(へや)」から〉が適当。「男の声」は幻聴だ。語り手Sは真相を隠蔽している。作者は隠蔽工作に加担している。だから、読者も加担せざるを得ない。

「客と」は〈「客」の声「と」〉の不当な略。「男」は「私の客と違って」いた。「私の客」は実在したが、「男」は実在しなかったのだ。「頗(すこ)ぶる低いの」は幻聴だからだろう。

「何を話しているのか」想像できたはずだ。だから、落ち付かなかった。

「分からなければ分らない程」は意味不明。「一種の昂奮(こうふん)」は意味不明。「昂奮(こうふん)を与える」は意味不明。「与える」の主語はDだろう。

「変にいらいら」は意味不明。

「障子を開け」なくても、「障子」に近づくだけでも、言葉が聞こえたかもしれない。なぜ、近づかなかったのか。〈「男」は実在しない〉と知っていたからだ。

〈「私の神経は」~「私を苦しめます」〉は意味不明。

「御嬢さんや奥さんの返事」の実例が、私には想像できない。

「権利」を得る方法はなかったのか。「権利」が意味不明だから、「いなかったのでしょう」と結んでしまったのだろう。

「勇気」がなかったのは、「権利」がなかったからだ。「権利」のない「勇気」は蛮勇だ。Sが蛮勇をふるって静母子を拷問したとしよう。そのとき、彼女たちは何を語ったろう。

Sの「権利」に対応する静母子の「義務」があるとすれば、それはどんなことか。不明。「義務」の内容が不明だから、Sに「権利」がなかったのかもしれない。

青年Sと静母子は「権利」の意味を共有できたろうか。

 

 

 

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3500 日本近代知識人のエゴイズム

3550 「義務」と「権利」

3553 『権利のための闘争』

 

大東亜戦争中のスローガンで「権利は捨てても義務は捨てるな」というのがあったそうだ。

 

<ただもう一つ御注意までに申し上げておきたいのは、国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見(ママ)える事です。

(夏目漱石『私の個人主義』)>

 

「御注意」が必要になったのは、「一体国家というものが危うくなれば誰だって国家の安否を考えないものは一人もいない」と、無根拠に言い切ってしまったからだ。

 

<この謬説と対立する私の説はこうである。人格そのものに挑戦する無礼な不法、権利を無視し人格を侮蔑するようなしかたでの権利侵害に対して抵抗することは、義務である。それは、まず、権利者の自分自身に対する義務である。――それは自己を倫理的存在として保存せよという命令に従うことにほかならないから。それは、また、国家共同体に対する義務である、――それは法が実現されるために必要なのだから。

――

権利のための闘争は、権利者の自分自身に対する義務である。

自己の生存を主張することは、生きとし生けるものの最高の法則である。この法則は、あらゆる生きものの自己保存本能として示されている。しかし、人間にとっては、肉体的な生存ばかりでなく、倫理的なるものとして生存することも重要であり、そのための条件の一つが権利を主張することなのである。

(ルドルフ・フォン・イェーリング『権利のための闘争』)>

 

「この謬説」は「国家の安否を考えないものはいない」といった類の意見だ。

 

<しかしわれわれ国家社会主義者はまだ先に進まなければならない。つまり、もし領土拡張ができぬとすればある大民族が没落せねばならぬように思われる場合、領土に対する権利は義務と変りうる。

(アドルフ・ヒトラー『わが闘争』「第14章 東方調整か東方政策か」)>

 

私は、イェーリングとヒトラーを比べ、私の読者に選択を迫っているのではない。

「笑談」としてさえ「意義」のない「思想」は邪魔なのだ。

 

<そうです。笑ってください。あなたには笑う義務がおありだということも真実です。だって、美しい歯をお持ちだもの。

(モーリス・ルブラン+JET『コミック怪盗紳士アルセーヌ・ルパン 八点鐘』「ジャン・ルイの場合」)>

 

みんなも笑ってる? 

(3550終)

(3500終)

(3000終)

(第一部終)

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏目漱石を読むという虚栄 3540

2021-06-24 22:24:43 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄 

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3500 日本近代知識人のエゴイズム

3540 「現代」は意味不明

3541 現代あるいは近代

 

「自由と独立と己れに充(み)ちた現代」は、二十一世紀から見たら〈近代〉だろうか。

 

  • <今の時代。例現代人。

② 歴史(れきし)の上で時代のくぎり方の一つ。ふつう、日本では明治維新(めいじいしん)から今までの時期をいう。

(『学研 小学国語辞典』「現代」)>

 

Sの言う「現代」は、歴史用語②であると同時に、俗語①でもあるようだ。

 

  • <ちかごろの世の中。
  • 歴史(れきし)上の時代のわけ方の一つ。ふつう、日本では明治(めいじ)時代からあと、西洋では一九世紀からあとをさす。

(『学研 小学国語辞典』「近代」)>

 

「ふつう」の小学生にとって、〈現代〉と〈近代〉は同じ意味だ。中学生にとっては、〈現代〉は「歴史時代区分の一つで、特に近代と区別して使う語」(『広辞苑』「現代」)だろう。

 

<日本史では明治維新から太平洋戦争の終結までとするのが通説。

(『広辞苑』「近代」)>

 

『こころ』の内部の世界における「現代」と『広辞苑』の「近代」は違う。「明治維新から」ではあろうが、P文書で語られるSにとっての「現代」は「今まで」つまり明治四十年頃までだ。この語を用いたときのSは、明治の終わりを知らない。ただし、「遺書」の語り手SやP文書の語り手Pや『こころ』の読者は、明治が終ったことを知っている。

高校生にとって、〈現代〉は〈近代後期〉か。しかし、広い意味での近代はまだ終わっていないはずだから、〈後期〉とは言えない。その一方で、〈近代は終わった〉とも言える。

 

<1980年代の世界的な思潮を概括する言葉。建築用語として使われたのが発端。モダニズム(とりわけ国際様式建築)に顕著な〈単一性〉〈普遍性〉への志向に対する、〈多様性〉〈歴史性〉を主張する傾向。一定の様式や主義を指す言葉ではないため、単に〈ポスト・モダン〉とも称される。

(『百科事典マイぺディア』「ポスト・モダニズム」)>

 

「近代主義を超えようとする傾向」(『広辞苑』「ポスト‐モダン」)に共通性がなくても、狭い意味での近代社会が終わったことは、誰でも実感しているはずだ。その終わりは、言うまでもなく、インターネットの普及による電脳社会の始まりだ。AIの人格と匿名のネット住民の区別ができなくなったとき、近代は完全に終わることだろう。

 

 

 

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3500 日本近代知識人のエゴイズム

3540 「現代」は意味不明

3542 近代精神

 

暗記するのは簡単かもしれないが、理解するのは困難だ。

 

<結局、(1)人間主義、(2)科学的合理主義、(3)人格の自律、この三つが近代精神の核心である。

(『哲学事典』「近代精神」)>

 

結局、こんな総括は、私には理解できない。『こころ』の読者には理解できるのだろうか。

 

<このような科学の暴力から人間を解放し、人間性を擁護することに現代ヒューマニズムの最大の問題があるといってよいのであるが、この問題の解決に有力な根拠を提供するような思想も、またそれに向かって働く有効な運動もまだ十分に形づくられていないというのが偽らざる現状であろう。

(『哲学事典』「ヒューマニズム」)>

 

この事典の「現状」は昭和四六年のもの。

 

<自律的人格と科学的法則認識との二つが、近代的合理主義をかたちづくる両極である。

(『哲学事典』「近代的合理主義」)>

 

「この二つ」は矛盾するように思える。

 

<本来的な自己が立てる法則に自己が従うのであるから自律的意志は自由である。人間はしかし意志が感性に触発されもする有限的理性者であるから、もっぱら理性のみに規定される純粋意志、自律的意志は、実現さるべく課せられた理念にとどまる。

(『哲学事典』「自律」)>

 

この事典では「近代精神」の限界が宣告されている。だから、Sの「覚悟」は、あたかも、昭和の「現状」を予知したものように誤読できてしまう。

 

<(なお、たとえば、日本などの後発諸国では先進技術などの導入による産業化が優先され、外面的な文物や制度の導入・模倣がなされたが、古い共同体的諸関係や価値体系が温存されたため、政治・社会の近代化は不徹底に終わるか、形骸(けいがい)化するに留まり、産業の近代化が政治・社会の近代化に先行した)

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「近代化」濱嶋朗)>

 

Sのいう「現代」とは、「近代化は不徹底に終わるか、形骸(けいがい)化する」しかない時代のことだろう。この「現代」は、二十一世紀も「継続中」だろう。

 

 

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3500 日本近代知識人のエゴイズム

3540 「現代」は意味不明

3543 「母のない男」

 

Sは、Pの「兄」が指摘したような〈いけない「イゴイスト」〉だったのか。だったら、Pの「兄」の見解は正しく、PはSを買い被っていたことになる。

 

<現代の社会は孤立した人間の集合体に過ぎなかった。大地は自然に続いているけれども、その上に家(いえ)を建てたら、忽(たちま)ち切(き)れ切(ぎ)れになってしまった。家の中にいる人間もまた切れ切れになってしまった。文明は我等をして孤立せしむるものだと、代助は解釈した。

代助と接近していた時分の平岡は、人に泣いて貰(もら)う事を喜こ(ママ)ぶ人であった。今でもそうかも知(ママ)れない。が、些(ちっ)ともそんな顔をしないから、解(わか)らない。否(いな)、力(つと)めて、人の同情を斥(しりぞ)ける様に振舞っている。孤立しても世は渡ってみせるという我慢か、又はこれが現代社会に本来の面目(めんもく)だと云う悟りか、何方(どっち)かに帰着する。

(夏目漱石『それから』八)>

 

「家の中にいる人間」は、どうして「切れ切れになってしまった」のだろう。個室を作ったからかな。いや、話は逆だろう。代助の「家の中にいる人間が切れ切れになってしまった」のが原因で、彼には「現代の社会は孤立した人間の集合体」に思えるようになったのだろう。

Sは、代助の想像する平岡に似ている。ただし、Sの場合、「何方(どっち)か」ではなく、〈何方(どっち)〉も〉だろう。この「悟り」は皮肉で、真意は〈生悟り〉だ。Sの「覚悟」はどうだろう。この言葉をSに奉ったのはPだが、Pに皮肉のつもりはなかろう。作者の皮肉かもしれない。

Sの場合、「この淋しみ」を耐えられないものにしてしまったのは、「家の中」の「ひっそり」のせいだろう。つまり、静のせいだ。近代人が共有しているのかもしれない孤立感とSに固有の育ちの悪さが原因の「この淋しみ」を、静は慰撫すべきだった。静にその力がなかったのか。そうではない。その力を発揮することができなかったのだ。なぜか。Sがその力を抑制しているからだ。なぜ、抑制するのか。Kの死に対する後ろめたさか何かのせいだ。

こうした物語を作者は暗示している。ただし、虚偽の暗示だ。

中年Sには、〈自分は静に愛されている〉という実感がない。つまり、被愛感情がない。ところが、〈静はSを愛する〉という物語を疑いたくない。ジレンマだ。

青年Sは被愛妄想的気分に酔うこともあった。だが、疑いもした。ただし、自分の感覚を疑うのではなく、静の「技巧」を疑った。この疑いを排除するためにKを導入した。不合理な試みだ。Kを排除することはできた。しかし、その結果、Sは自分の精神の半分を失った。Kとは、被愛妄想の世界に安住することのできるS自身の象徴だったのだ。

〈XがYを愛する〉という物語があるとしよう。Sは、〈YをKに置き換えるとすぐにSに置き換えよう〉と企んだ。また、同時に、Xが静になることを望んだ。そのSは、「自叙伝」の主人公Sだ。最初からYにSが入るのなら、Xには「母」が入ったはずだ。

しかし、〈「母」はSを愛する〉という物語は、成り立たない。Sも、Kと同様、「母のない男」だったからだ。いや、Sこそが「母のない男」だったのだ。Sの「自叙伝」の根底をなすはずの〈愛される「資格」のないS〉の物語を、作者は隠蔽しようとした。ただし、それを断片的に暴露した。こうした矛盾のせいで、『こころ』は意味不明になった。

(3540終)

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘロシです。~差別者の烙印

2021-06-23 11:40:48 | ジョーク

   ヘロシです。

      ~差別者の烙印

ヘロシです。

小学四年のとき、ヘロヘロをやったら、

生まれて初めて友達ができました。

ヘロシです。

中学のとき、ヘロヘロをやったら、

女子に睨まれました。

ヘロシです。

高校のとき、ヘロヘロをやったら、

差別者の烙印を捺されました。

ヘロシです。

高校を出てからもヘロヘロをやっていたら、

病院に行けと諭されました。

ヘロシです。ヘロシです。ヘロシです。

(終)

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする