MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2577 改めて「豊かな社会」とは?

2024年04月29日 | 社会・経済

 国連開発計画(UNDP)が、世界各国の国民の豊かさを示す「人間開発指数」について最新の報告書を発表。日本の順位は前回(の22位)より2つ下がって24位となった旨、3月15日のNHKニュースが報じています。

 「人間開発指数」とは、国民ひとりあたりの所得や教育、平均寿命をもとに算出したその国の暮らしの豊かさを示す指標とのこと。今回の報告で1位となったのはスイスで、2位がノルウェー、3位がアイスランドの由。このほか、韓国が19位、アメリカが20位、ロシアが56位、中国は75位に位置付けられたということです。

 報告書によると、新型コロナの感染拡大の前後で先進国と途上国の間で格差が拡大し二極化が進んでいるとのこと。OECD(=経済協力開発機構)に加盟する(先進)38か国はすべて2019年の水準を上回った一方で、18の途上国はコロナ以前の水準を下回ったままだとされています。

 一国の「豊かさ」というのはなかなか測りづらいものですが、自由になるお金が多ければ豊かな社会かと言えば必ずしもそうではないでしょう。また、それなりにゆとりのある生活ができていたとしても、格差や不公平感の大きい社会で暮らしている人が豊かさや満足感を感じるのは容易いことではないかもしれません。

 国民一人当たりのGDPや可処分所得の低下が指摘されることが多くなった日本人の「豊かさ」について、神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏が、昨年5月の自身のブログ(「内田樹の研究室」2023.5.1)に『豊かな社会とは』と題する一文を掲載していたので、この機会に小サイトに概要を残しておきたいと思います。

 今の若い人に「日本は豊かな国ですか、貧しい国ですか?」と訊ねたら、たぶん半数以上が「貧しい国です」と答えるだろう。平均給与はOECD28か国中22位、ジェンダーギャップ指数は146か国中116位、報道の自由度ランキングは180か国中71位などの数字を見ても、日本は貧しく、不自由で、生きづらい国であることは(おそらく)間違いないというのが内田氏の認識です。

 本来「豊か」というのは、私財についてではなく、公共財についてのみ用いられる形容詞であるべきだと氏はこの論考で指摘しています。

 仮にメンバーのうちの誰かが天文学的な富を私有して豪奢な消費活動をしていても、誰でもがアクセスできる「コモン(共有)」が貧弱であるなら、その集団を「豊かな共同体」と呼ぶことはできない。身分や財産や個人的な能力にかかわらず、メンバーの誰もが等しく「コモン」からの贈り物を享受できることが、本質的な意味での「豊かさ」だと氏は言います。

 私財の増大よりも、メンバー全員を養うことができるほどにコモンが豊かなものになることを優先的に気づかう態度のことを「コミュニズム」と呼ぶ。「貧富」は個人について語るものではなく、共同体について言うもだというのが氏の見解です。

 私たちにとって死活的に重要なのは、われわれの社会内にどれほど豊かな個人がいるかではなく、われわれの社会がどれほど豊かなコモンを共有しているかにあると氏は言います。ある社会が豊かであるか貧しいかを決定するのは、リソースの絶対量ではなく、その集団の所有する富のうちのどれほどが「コモン」として全員に開放されているかだというのが氏の指摘するところです。

 この定義に従うならば、日本だけでなく、今の世界はひどく貧しい。世界でもっとも裕福な8人の資産総額が、世界人口のうち所得の低い半分に当たる37億人の資産総額と等しいという現状を、「豊かな世界」と呼ぶことは到底できないと氏はここで説明しています。

 一方、そのことに気づいて、もう一度日本を「豊かな」社会にしようという努力を始めている人たちがいる。それは別にGDPをどうやって押し上げるかという話ではなく、どうやってもう一度「コモン」を豊かにするかということだということです。

 最近、私の周囲でも、私財を投じて「みんなが使える公共の場」を立ち上げている人たちをよく見かけるようになったと氏は言います。私(←内田氏)自身も10年ほど前に自分で神戸に凱風館という道場を建てた。畳の上に座卓を並べてゼミをしたり、シンポジウムをしたり、映画の上映会や浪曲、落語、義太夫などの公演を行うなど、ささやかながら(これも)一つの「コモン」だと思っているということです。

 そうした(ささやかな)コモンを日本中で多くの人たちが今同時多発的・自然発生的に手作りしている。そして、気がつけばずいぶん広がりのあるネットワークが形作られつつあると氏はしています。

 この手作りの「コミュニズム」は、(かつてのソ連や中国の共産主義とは違い)富裕者や社会的強者に向かって「公共のために私財を供出しろ。公共のために私権の制限を受け入れろ」などと強制することはない。公共をかたちづくるためにまず身を削るのは「おまえ」ではないし「やつら」でもなく、「私」だというところが新しいコミュニストたちの姿だということです。

 「豊かな社会」というのは、そう思い切り、努力をいとわず身を斬る人がいて初めて形作られていくもの。同意してくれる人はまだ少ないかもしれないが、私はそう確信していると話す内田氏の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。



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