(ブログ初出:2017年6月25日付)
1999年6月24日。
この日、自分の大好きだったシンガーソングライターがこの世を去った。
村下孝蔵さん。
世間的には1982年の「ゆうこ」で注目株として知名度が上がり、
1983年の「初恋」「踊り子」で見事ブレイクした方だ。
ある意味では“遅れてきたフォーク歌手”の感もあっただろうか。
デビューアルバム『汽笛が聞こえる街』(1980)から「ゆうこ」の入った3rd『夢の跡』(1982)までは、
典型的な「フォーク&ニューミュージック」的世界の歌で占められているが、
4thのブレイク作『初恋~浅き夢みし』(1983)からロック&ポップス的アレンジになってきた。
仕事中ながら、ふと脳裏に現れる彼の歌があった。
1988年のアルバム『恋文』に収録された「かず君へ」だ。
ニコニコ動画のリンクを貼りました。 (お聴きになるには登録が必要です)
作詞・作曲:村下孝蔵
編曲:水谷公生
アルバム『恋文』全体はこの時代特有のデジタルサウンドやロック&ポップス・サウンドで構成されているのだが、
お聴きのとおり、この歌に関しては歯切れの良いピアノ1台だけの演奏をバックに
訥々(とつとつ)と歌っている。
ある人は”離婚した女性(母親)を、息子とクルマで見送る男性(父親)の立場の歌”と解説された。
…なるほど、そうなんだろうなあ。
---------------------------
少し前のテレビ番組「夜の巷を徘徊する」で、
マツコ・デラックスが裏渋谷(代々木八幡あたり)の蕎麦屋でお酒を呑みながら、
「…幸せって何なのかしらねえ……、あたし、わからなくなった」
と呟く場面がすごく印象的だった。
自分もわからないまま歩き続けている。
この歌の男性・女性も結婚した頃は幸せだったんだろう。
けど、それは長く続かなかった。
そして、こんな結論になってしまった。
---------------------------
村下孝蔵さんは、1999年のこの日、高血圧性脳内出血が原因で亡くなられた。
享年46歳。
心に染み入る歌を作ってきたし、またそれなのに後期はそんなに売れなかった。
本人やスタッフがオーストラリアに行ってまで創った入魂の傑作アルバム『名もない星』(1992)が、
結果的にオリコンチャート100位以内にさえ入らなかった。
↓
だから最後のオリジナルアルバムは“打ち込み中心のサウンド”だったり、
生前最後のシングル「同窓会」は須藤晃プロデューサーとの“宅録”スタイルだった。
それが今でもたいへん悔しい。
願わくば、2枚組くらいでもっと構成の良いベストアルバムがベストセラーになって、
再評価されれば良いと思っている。
---------------------------
余談だが、
6月のこの時期から9月にかけてが、自分にとって一番体調が良くない時期だ。
冬生まれで寒冷地仕様体質の自分にとって、
東京(関東)以西の「高温多湿」の日本の夏は苦痛なのだ。
1999年6月24日。
この日、自分の大好きだったシンガーソングライターがこの世を去った。
村下孝蔵さん。
世間的には1982年の「ゆうこ」で注目株として知名度が上がり、
1983年の「初恋」「踊り子」で見事ブレイクした方だ。
ある意味では“遅れてきたフォーク歌手”の感もあっただろうか。
デビューアルバム『汽笛が聞こえる街』(1980)から「ゆうこ」の入った3rd『夢の跡』(1982)までは、
典型的な「フォーク&ニューミュージック」的世界の歌で占められているが、
4thのブレイク作『初恋~浅き夢みし』(1983)からロック&ポップス的アレンジになってきた。
仕事中ながら、ふと脳裏に現れる彼の歌があった。
1988年のアルバム『恋文』に収録された「かず君へ」だ。
ニコニコ動画のリンクを貼りました。 (お聴きになるには登録が必要です)
作詞・作曲:村下孝蔵
編曲:水谷公生
アルバム『恋文』全体はこの時代特有のデジタルサウンドやロック&ポップス・サウンドで構成されているのだが、
お聴きのとおり、この歌に関しては歯切れの良いピアノ1台だけの演奏をバックに
訥々(とつとつ)と歌っている。
ある人は”離婚した女性(母親)を、息子とクルマで見送る男性(父親)の立場の歌”と解説された。
…なるほど、そうなんだろうなあ。
---------------------------
少し前のテレビ番組「夜の巷を徘徊する」で、
マツコ・デラックスが裏渋谷(代々木八幡あたり)の蕎麦屋でお酒を呑みながら、
「…幸せって何なのかしらねえ……、あたし、わからなくなった」
と呟く場面がすごく印象的だった。
自分もわからないまま歩き続けている。
この歌の男性・女性も結婚した頃は幸せだったんだろう。
けど、それは長く続かなかった。
そして、こんな結論になってしまった。
---------------------------
村下孝蔵さんは、1999年のこの日、高血圧性脳内出血が原因で亡くなられた。
享年46歳。
心に染み入る歌を作ってきたし、またそれなのに後期はそんなに売れなかった。
本人やスタッフがオーストラリアに行ってまで創った入魂の傑作アルバム『名もない星』(1992)が、
結果的にオリコンチャート100位以内にさえ入らなかった。
↓
だから最後のオリジナルアルバムは“打ち込み中心のサウンド”だったり、
生前最後のシングル「同窓会」は須藤晃プロデューサーとの“宅録”スタイルだった。
それが今でもたいへん悔しい。
願わくば、2枚組くらいでもっと構成の良いベストアルバムがベストセラーになって、
再評価されれば良いと思っている。
---------------------------
余談だが、
6月のこの時期から9月にかけてが、自分にとって一番体調が良くない時期だ。
冬生まれで寒冷地仕様体質の自分にとって、
東京(関東)以西の「高温多湿」の日本の夏は苦痛なのだ。