夏ゆえの体調不良に陥っていました。
暑いから水分を摂る⇒体が「摂りすぎやぁ!」と悲鳴を上げて下痢・脱水症状へ⇒
気力・体力のさらなる減退……
忙しさもあり、帰宅・夕食後は1時間半は熟睡し、目が覚めると深夜。
更新する気がすっかり失せていました。
やっと休日。 休養もとれたので、書きます。
-----------------------------------
映画&コミックの「この世界の片隅に」
ここまではまる作品だったとは……
劇場に複数足を運んで、今年2017年に入ったころにはこう思っていた。
「広島に行きたい」と……
思えばまだ1990年代に一度、岡山・津山・尾道・広島・そして萩と
山陽地方横断の旅をして以来であり、実に20数年ぶりとなる。
ちなみに萩は山陽ではないのだが、当時「緋が走る」という陶芸のマンガにハマって訪ねたいきさつがある。
時期はいろいろ考えた。
ゴールデンウィーク終了直後の5月。
旅行パックがもう満室で、GW前の帰札を優先した。
6月……3連休がない。
ならば7月の「海の日」中心の3連休は……
ホテルパックが高い!!
安いホテルパックは1か月以上前から満室になっていた。
じゃあいいよ、宿泊と交通費を切り離すから。
岡山からの帰路に「サンライズエクスプレス」乗車も考えたが、それでは宿泊は1泊のみで、
実質広島・呉に集中しても半日もいられない計算。
これに行きたいと思ってた尾道も入れたら在来線移動で時間が消失する……
結果、呉での2泊と「往復新幹線」という行程となりました。
7月15日・土曜日、東京駅新幹線コンコース。
……すごい混雑と化していた。
やっぱりみんな、同じことを考えているのだねぇ、目的地は違っても。
車中での食事(ジュース&サンドイッチ)を購入、
9:50発、広島行き「のぞみ105号」はかくて満席で発車した。
……速いねぇ、やっぱり新幹線って。
新横浜を出ると、富士山も大井川も浜名湖もアッと言う間に過ぎてゆく。
名古屋を出ると古い家の屋根の黒さに驚き、
岡山くらいになると農家の一軒家の屋根の茶色さにまた驚く。
-----------------------------------
13:50、広島終着。
実に20数年が経ってしまっていた。
駅構内のお好み焼き屋街も寝台特急「富士」乗車前に汗を流したサウナも、今はもうない。
すっかり綺麗でスタイリッシュな駅舎になってました。
余計な感慨に浸る余裕もなく、市電に乗って目指すは……
「原爆ドーム」。
(注意:広島地区でのICカードはJR西日本の「ICOCA」が基準であり、首都圏の「PASMO」「Suica」は使えません)
ああ、やっぱり広島の象徴だ。
見るたびに人類の残虐さに言葉を失う。
原爆投下には今なお多くの賛否両論がある。
長い間アメリカ政府の言い分「原爆投下が戦争終結を早めた」にも納得はいく。
当時の“一億総玉砕”を言い張った傲慢な軍政府のままでは、「日本」という国そのものが間違いなく消滅していただろう。
しかし、「正しかった」には絶対間違っている、と答えたい。
この街にもどの国にも純粋な庶民の暮らしがあり、それを奪う権利はどの国にもない。
(それが例え北朝鮮であろうとも)
国どうしの紛争を解決するには、まず話し合いが優先されなければならないのだ。
だから、韓国にも中国にも一度も訪問していない安倍晋三政権は「失敗」なのだ。
閑話休題。
そんな中の2016年5月27日、現職のアメリカ大統領だったバラク・オバマ氏が初めて広島にやって来て、演説もして下さった。
だからこそ、彼の偉業は今も忘れられない。
「だから 私たちは 広島に来る」:オバマ氏広島演説・ノーカット版
原爆ドームの横で、ボランティアの人が歴史をいろいろ語っており、耳を傾けていた。
日本語に堪能なアメリカからの女性も興味津々で質問をしていた。
平和記念公園や資料館に行っても、格段に国際化が進んでいる。
平和記念資料館の半分くらいは現在リニューアル工事中であり、公開スペースは限られていた。
それでも、現在のデジタル技術を駆使した資料は見ごたえがある。
展示資料も日英中韓の「4か国語」対応がなされており、外国人観光客(特に欧米系)が目立った。
あまりの入場者の多さにまだまだ観ていたいものもありますが、かなり時間が経っていた。
平和のステッカーをひとつ買い、資料館を後にする。
完全オープンする来年に、また必ず来よう。
原爆ドーム周辺の中にも、すずさんが生きてきた時代の光景が要所要所にある。
オープニングの昭和8年、まだ幼子だった彼女が渡し船に乗って江波の自宅から街中心部へ「のり」を届けに来た時、船を降りた「雁木」(=船着場における階段状の構造物。江戸時代における和船操船技術の一つ 。ウィキペディア解説より)が残っていたり、
現在レストハウスになっている建物も被爆前からのものでした。
そして、相生橋。
昭和8年、すずさんが“人さらいのバケモン”にカゴの中に入れられた時に周作と出会い、
昭和21年、被爆後の原爆ドーム前で(海軍解体で大竹に長期滞在していた)周作と再会する。
本当は江波での松下商店跡も確かめたかったのですが平和記念資料館で時間をかけ過ぎた為に夕方になり、
仕方なく広島駅へ引き返して来ました。
18時過ぎ呉線に乗って、呉には19時近くの到着だった。
つづきます。
暑いから水分を摂る⇒体が「摂りすぎやぁ!」と悲鳴を上げて下痢・脱水症状へ⇒
気力・体力のさらなる減退……
忙しさもあり、帰宅・夕食後は1時間半は熟睡し、目が覚めると深夜。
更新する気がすっかり失せていました。
やっと休日。 休養もとれたので、書きます。
-----------------------------------
映画&コミックの「この世界の片隅に」
ここまではまる作品だったとは……
劇場に複数足を運んで、今年2017年に入ったころにはこう思っていた。
「広島に行きたい」と……
思えばまだ1990年代に一度、岡山・津山・尾道・広島・そして萩と
山陽地方横断の旅をして以来であり、実に20数年ぶりとなる。
ちなみに萩は山陽ではないのだが、当時「緋が走る」という陶芸のマンガにハマって訪ねたいきさつがある。
時期はいろいろ考えた。
ゴールデンウィーク終了直後の5月。
旅行パックがもう満室で、GW前の帰札を優先した。
6月……3連休がない。
ならば7月の「海の日」中心の3連休は……
ホテルパックが高い!!
安いホテルパックは1か月以上前から満室になっていた。
じゃあいいよ、宿泊と交通費を切り離すから。
岡山からの帰路に「サンライズエクスプレス」乗車も考えたが、それでは宿泊は1泊のみで、
実質広島・呉に集中しても半日もいられない計算。
これに行きたいと思ってた尾道も入れたら在来線移動で時間が消失する……
結果、呉での2泊と「往復新幹線」という行程となりました。
7月15日・土曜日、東京駅新幹線コンコース。
……すごい混雑と化していた。
やっぱりみんな、同じことを考えているのだねぇ、目的地は違っても。
車中での食事(ジュース&サンドイッチ)を購入、
9:50発、広島行き「のぞみ105号」はかくて満席で発車した。
……速いねぇ、やっぱり新幹線って。
新横浜を出ると、富士山も大井川も浜名湖もアッと言う間に過ぎてゆく。
名古屋を出ると古い家の屋根の黒さに驚き、
岡山くらいになると農家の一軒家の屋根の茶色さにまた驚く。
-----------------------------------
13:50、広島終着。
実に20数年が経ってしまっていた。
駅構内のお好み焼き屋街も寝台特急「富士」乗車前に汗を流したサウナも、今はもうない。
すっかり綺麗でスタイリッシュな駅舎になってました。
余計な感慨に浸る余裕もなく、市電に乗って目指すは……
「原爆ドーム」。
(注意:広島地区でのICカードはJR西日本の「ICOCA」が基準であり、首都圏の「PASMO」「Suica」は使えません)
ああ、やっぱり広島の象徴だ。
見るたびに人類の残虐さに言葉を失う。
原爆投下には今なお多くの賛否両論がある。
長い間アメリカ政府の言い分「原爆投下が戦争終結を早めた」にも納得はいく。
当時の“一億総玉砕”を言い張った傲慢な軍政府のままでは、「日本」という国そのものが間違いなく消滅していただろう。
しかし、「正しかった」には絶対間違っている、と答えたい。
この街にもどの国にも純粋な庶民の暮らしがあり、それを奪う権利はどの国にもない。
(それが例え北朝鮮であろうとも)
国どうしの紛争を解決するには、まず話し合いが優先されなければならないのだ。
だから、韓国にも中国にも一度も訪問していない安倍晋三政権は「失敗」なのだ。
閑話休題。
そんな中の2016年5月27日、現職のアメリカ大統領だったバラク・オバマ氏が初めて広島にやって来て、演説もして下さった。
だからこそ、彼の偉業は今も忘れられない。
「だから 私たちは 広島に来る」:オバマ氏広島演説・ノーカット版
原爆ドームの横で、ボランティアの人が歴史をいろいろ語っており、耳を傾けていた。
日本語に堪能なアメリカからの女性も興味津々で質問をしていた。
平和記念公園や資料館に行っても、格段に国際化が進んでいる。
平和記念資料館の半分くらいは現在リニューアル工事中であり、公開スペースは限られていた。
それでも、現在のデジタル技術を駆使した資料は見ごたえがある。
展示資料も日英中韓の「4か国語」対応がなされており、外国人観光客(特に欧米系)が目立った。
あまりの入場者の多さにまだまだ観ていたいものもありますが、かなり時間が経っていた。
平和のステッカーをひとつ買い、資料館を後にする。
完全オープンする来年に、また必ず来よう。
原爆ドーム周辺の中にも、すずさんが生きてきた時代の光景が要所要所にある。
オープニングの昭和8年、まだ幼子だった彼女が渡し船に乗って江波の自宅から街中心部へ「のり」を届けに来た時、船を降りた「雁木」(=船着場における階段状の構造物。江戸時代における和船操船技術の一つ 。ウィキペディア解説より)が残っていたり、
現在レストハウスになっている建物も被爆前からのものでした。
そして、相生橋。
昭和8年、すずさんが“人さらいのバケモン”にカゴの中に入れられた時に周作と出会い、
昭和21年、被爆後の原爆ドーム前で(海軍解体で大竹に長期滞在していた)周作と再会する。
本当は江波での松下商店跡も確かめたかったのですが平和記念資料館で時間をかけ過ぎた為に夕方になり、
仕方なく広島駅へ引き返して来ました。
18時過ぎ呉線に乗って、呉には19時近くの到着だった。
つづきます。