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偉大な関西の日蓮大聖人信者慈悲菩薩  友岡雅哉氏 3

2019-05-19 19:04:37 | 日記
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特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第10回(※印は弊社解説)

当然、天命尊徳会の誰も山木進一先生自身を黙らせる事なんて出来ませんよね。

でもね、先生のスピーチチームや周辺の人々を執行部の息のかかった者に交代させればどうなりますか?(笑)

執行部は具体的にどうしたかと言うとね、それまでのスピーチ原稿は、まず先生からのご指示がありまして、本校正があり、スピーチチームで資料などを用意し、海外の講演も含め細かいチェックが入り、という風にやっていたんですよ。

ところがこの時期から、今までのスピーチチーム員が交代させられていったんです。

結論を先に言うと、そこで「山木進一を黙らせる」為に暗躍したのが、丹治正弘(※2008年に副会長になるが、潮出版社絡みで多額の使い込みなどが発覚して2009年秋に解任、編集局長も外された人物)だったんです。


この丹治という男は、元々は本隊随行(※先生に随行する記者)をやっていたんですがね、よく先輩記者から「なんだこの原稿は!信者の胸に響かないじゃないか!」等と叱責されていましたね。期待されたからこそ厳しくされたんだと思うんですが。


しかし、やがて丹治は先生の随行記者を外されてしまうんです。

実はある時、先生が「小泊と丹治は反逆者の目をしている。二人を本隊マークから外せ」とおっしゃったんで二人が外されたんですが、当時の丹治はこの先輩記者を逆恨みしたりしていましたね。


それで、丹治は何をするようになったかというと、新聞の宗門対策の紙面座談会チームに入った。
これが一つのポイントなんです。

あの宗門の坊主の実態を暴いた座談会記事のチームです。
この新聞の紙上座談会というのは、実際に座談会がされているのではなく、このチームが書いているんです。
ある意味架空座談会ですね。

たまに幹部が円卓を囲んで如何にも座談会しているような写真が掲載されますが、これはダミーです。

当時、宗門座談会チーム(※ダーティーワークチーム)は、全国の広宣部を利用して、寺の住職を尾行したり、寺のごみ箱をあさったり、御講の録音をしたり、そうして集めた情報を聖教新聞の紙面座談会で書いていました。

この宗門座談会チームのトップが佐藤浩(現在副会長)でした。
二人は早稲田大学のひとつ違いの先輩後輩にあたる関係でしたね。

(※丹治が本隊マークを外された1995年前後の時代背景は、
1994年5月に四月会が結成されて、村山内閣、橋本内閣は前出のように民族新報などにより徹底した先生の個人攻撃を展開した。)

(※この時期、佐藤浩氏は全国男子部長、丹治氏が男子部教育室長であり、彼らは裏仕事としてこの民族党対策もしていた)

(※電車の中吊り広告を出す事が出来る月刊誌「第三文明」を利用し、通常号に加えて、臨時増刊号を毎月のように出して、民族党からの言論攻撃に対して論陣を張った。)

(※臨時増刊号は1995年2月から1996年9月までの間で12冊発行)

(※この「第三文明」を使った言論の攻防戦を実質的に仕切ったのが丹治氏であった。)

(※ここから始まった佐藤・丹治一派と第三文明社の癒着が淵源ではあるが、直接的には、月刊誌「潮」(潮出版社)の「山木進一の軌跡」の記事を書いた事が、巷で噂されている「二重給与問題」「9年間で5千万円の飲食代タカリ事件」等につながっていく。)











特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第11回(※印は弊社解説)

 そういうことで、民族党と連立を組む1999年ごろより、これまで先生と綿密に打ち合わせをしていたスピーチライターチームが排除されて、それまでダーティーワークをしていたチームがスピーチチ-ムになりました。

(※ライターが変更されてからは、この事情をよく知る本部幹部の口々から「最近の記事の質が悪くなったね」との陰口が囁かれる様になった。)

(※一方でこの頃より「同時中継」とは名ばかりで、後日に編集して内容を放映し出した。)

(※特に先生が平和や師弟に関するスピーチは「編集やカット」されていた印象が強い。)

(※アフガニスタン空爆やイラク戦争に積極的に支持する国家権力に対する配慮なのか、
昭和54年問題に触れられたくない幹部達のためか、何れにせよ教団本部執行部にはとても都合が良い「スピーチ選集」に編集された「同時中継」となる)

(※当時の教団本部職員の多くには、名誉会長は理想論、会長は現実論という雰囲気があったと証言するのは、あるベテラン現役職員の言葉)

(※そして時代が進むにつれ、スピーチ映像から先生のアドリブ部分を削除した結果、代わりに長谷川氏らが延々と原稿を代読して、それを池田先生が横で黙って聞いているという、何とも奇妙な光景になっていったのである)


(※敢えてダーティーチームが用意した原稿を読むのではなく、先生は意図的に大幹部を揶揄するアドリブを沢山入れたのだが、編集でこのアドリブ部分をカットしたのは、会員の前では執行部の恥部を公表したくなかったからだ)

(※もともと先生には昭和54年問題【弟子の裏切りの歴史】の真実を会員の前では「黙ってて欲しい」幹部達の本音と連立政権の運営において先生を「黙らせたい」政治家達の利害が一致していたのである。)

(※国家権力と利害が一致した天命尊徳会執行部は、民族党幹部の申し出を断る理由が無いのだ。
時間をかけて、少しずつ「山木進一を黙らせた」のである。)

(※そして現在では、「黙らせる」だけでなく、先生の名を語る記者たちが、好き勝手な文章を聖教新聞にタレ流しているし、また過去のスピーチや書物さえも「改ざん」している事に、賢明なる読者は気付いている事であろう)


それと共にね、当時の会の中では、先生と秋谷さんとの確執があったんですが、その時には既に秋谷さんが組織における全ての実権を先生から奪っていましたから、先生に人事権なんてありませんでしたよ。


(※先生が具体的な人事検討に携わらなかったのは事実だ。)

(※特に職員人事は秋谷会長が全権を握っていた事は、職員ならば誰でも知っている事である。)

(※当時を知る定年退職した職員は「あの時代はね、口では【先生を中心に】とは言ってはいたけれども、腹では【秋谷会長が中心】だったんですよ」と後悔の念を込めて語ってくれた。)

(※一般的に組織人というモノは、人事権を握られると、実に弱いくて儚い生き者なのである)

(※秋谷会長は、先生寄りの人間を一人一人排除し、自分の息のかかった人間を着々と登用して、組織も本部機構も完全に掌握したと教えてくれた職員の友人もいる。
特に「総合センター」は秋谷会長の牙城であったとの事。)

(※「秋谷会長解任前の先生の地盤は第一庶務だけだった。他はほとんど無かった。
だから先生中心の天命尊徳会に戻そうと反秋谷派でまとまり田原三郎を会長に担いだんだが、、、」とある本部幹部)

(※続けて「でも今では【田原三郎会長を中心】に変わっただけだ。
職員の本質は、あの時と何も変わっとらんよ」と嘆く。)


皆がもっと驚くと思いますが、各地に建設される会館の命名権さえも秋谷さんにあったのですよ。

表では「先生に名前を付けて頂いて」と言いながら、実は秋谷さんが命名したんですよ。

受け取る側がそれを先生の言葉としていい方に受け止めることは決して悪いことではないんですが、でも先生が全部指示しているなんてことはないんです。

一方で、先生が地方指導に行かれた時は、上の幹部を通じてでは無く、現場の幹部が先生に直接モノを言えた時代でしたね。

特に西口(※総関西長)さんなんかは上手くて、秋谷さんに言ったら絶対に通らなかった人事案を、「先生と秋谷さんに言いましたよ」ってやるんですよ。

例えば、先に秋谷さんに先に言って通らなかった人事案なんかを、「実はこういう人事を考えていまして」と池田先生に言うんですね。
でも実際の人事権は秋谷さんにある。

それを聞いた先生は皆の前で「秋谷、これでいいだろ」とやる。
すると秋谷さんは皆の手前、「人事権は私にある」とは言えないから呑まざる負えないんです(笑)


そんなことで、先生は地方へ行くことで、いい意味で組織をかき回していた。

「私中心の同心円なんだ!
ピラミッドじゃないんだよ」とも仰っていましたね。

更に、「関西は本部の言うこと聞くんじゃないよ」と、しょっちゅう言っておられた。
なんでみんなあの頃の事を忘れてしまうんだろう。



特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第12回(※印は弊社解説)

話はダーティーチームの事に戻りますが、彼らが寺のゴミ箱にから漁ってきたような内容を記事にすると、先生は生粋の江戸っ子ですから、「なんだ、あすこの坊主はこんな悪さをしているのか!会員がかわいそうじゃないか!」となるんですね。

坊主に虐められている会員を守りたいという先生の心を利用して、そうしたダーティーな記事を毎日、バンバンと先生の所に入れた。

この宗門座談会で矢継ぎ早に記事を書くと、先生が「丹治はすごいじゃないか!」と言われたのも事実です。

またその記事を長谷川さん(※当時は第一庶務室長、現在は理事長)が持ってきて、全国の婦人部に「宗門座談会を一番に読みなさい」と流してしまう。

これが当時の教団本部上層部の状況だったんです。

やがて丹治は天命尊徳新聞編集局長になるのですが、丹治が局長の時(2008年~2009年秋迄)は、僕は原稿を一枚も書かせてもらえなかったんです。

それまではよく“名字の言”を書かせて貰っていたんですがね、丹治局長の時は全然書かせてもらえなくなったんです。

ですが、ある意味、自分にとってラッキーだったけど。仕事しなくていいんですから。(笑)

そのぶん、ホームレスの方々とハンセン病の方々の支援を思う存分できましたし。

(※「丹治は優秀です」と先生に一番最初に報告したのは、長谷川重夫氏とともに中野冨美雄氏【副会長、第一庶務】で、この二人の尽力もあり丹治氏はこの時期に編集局長になれたともいえる)

(※丹治氏と中野氏は、ある時期、ある事で、完全に結託していたのを、京都乃鬼は知っている)


ま、それはそれでよかった。なぜなら僕は“名字の言”は大っ嫌いなんです。何故かというと最終チェックが長谷川さんだったから。(笑)

いつでも長谷川さんがイチャモンつけるんですよ。

「君の記事を見ていると、ボランティア活動が良いように見える。教団活動よりボランティア活動の方に会員を向けていく」とか
「君がやっている事は小善なんだよ!」と。

これで何回も首を切られそうになったことか分かりません。




特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第13回(※印は弊社解説)

ま、そういことで、丹治という男は、宗門座談会を利用して先生を動かしたと言えるでしょうね。

先生は、本当に人が良すぎるぐらいに良い方なんですよ。

だからこう言うと誤解を招くかも知れませんが、先生はある意味では、側近幹部の育成に失敗したのかも知れませんね。

原島や山友なんかもそうですが、彼らは上手に先生の庶民感情や正義感につけ込んで、先生の全面的な信頼を勝ち取ったんです。

そして先生を騙し陥れた。当然ですが、先生は全く悪くない。
先生は真っ白な心なんです。だから直ぐに相手を信頼しちゃうんですよ。

ま、話を戻して、先程も言いましたが、先生が「宗門はこんなこともしていたのか!この記事を皆に見せなさい!」と言うと、

それを長谷川さんがこれを持ってきて、いろんな幹部に対して「丹治君の言うことを全部きくんだ!」とやるんです。

結局、丹治は単なる編集局長だけではなく、信濃町(※本部)の上の方にも君臨していましたね。佐藤浩とともにね。


例えば社説なんかに“平和”とか”人権“とか、誰か記者が書くと、何故か丹治に査問されるんです。

「それは、先生が宣伝のために使う言葉だ!先生は、平和とか人権とか大っ嫌いなんだ。
先生は弱い人間なんか大っ嫌いだよ!」というのが丹治の口癖であり信条だったからなんです。

なぜかといえば、先生は丹治個人に対して「負けてはいけない!もっと強く行くんだ!」と指導されていたんですね。

丹治への個人指導なのに、それを彼は曲解したのか、敢えて彼がそうしたのかは分かりませんがね(笑)

実はこのように先生の指導が曲解された例は頻繁にあるんです。

面白い話があります。

かつて先生から「百六箇抄」講義を受けて副会長になった一人に滝本さんと言う方がおられたんです。

京大を出て建築関係の仕事をして、統監も担当された事もあったんですが、

その滝本さんが定年になって、ご家族の一人の方がフィリピンに行くことになり、一緒に行く事の報告を先生と会食した席でされたんです。

そこには滝本さんの他に、西口さんたち方面幹部も同席していたんですが、滝本さんが「これからフィリピンに行って、無役職で、一会員としてやっていきます」と報告した。

すると先生は「滝本、えらいなー」と言ったあと、「フィリピンはいいなー、選挙がなくて。選挙は福運を消すんだよ」と仰った。

で、パッと西口さんの方を向かれて、当時少し心臓を病んでいた西口さんに、「お前は選挙を戦っていないから病気になるんだ」と言われた。

一見180度反対のことを言われた。これが先生なんです。

つまり、西口さんがやっていたのは、会員を集めて、号令かけて、票読みをして、分析するだけ。

しかし、先生が言われる西口さんがするべき選挙活動というのは、先生が昭和31年、32年にやった、自転車に乗って、バイクの後ろに乗って、一軒一軒、激励に回る。
それをやれということだったんですね。

 西口さんという人は選挙が大好きで、今までやりすぎるほど選挙をやり、選挙と財務でのし上がった人です。

その西口さんに「選挙をやれ!選挙を戦わなかったら病気になるよ」と言われたのは、
一人一人の所に行きなさいという意味だったんですね。

それを西口さんは関西へ戻って、県長会議で「選挙を戦わないと病気になる」と指導してしまった(笑)

それをまた婦人部幹部が広める。
全く違った意味で先生の言葉が利用されちゃう。
こういうことが頻繁にあったんですよ。



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