(神代植物公園の大温室の熱帯スイレン 8月22日撮影)
本社資材部の勤務は、ほぼ4年半でした。鋳物担当に変わって半年ほどして、山梨工場への転勤となりました。28歳の誕生日の2か月ほど前、1976年(昭和51年)の10月だったと記憶しています。
勤務先は、調度課。先にご説明したと思いますが、本社は資材部購買課という名称でしたが、工場の調達部門はこの「調度課」という名称でした。
少し前から話が聞こえていたのですが、この山梨工場の調度課で、ちょっとしたトラブルが続いていて、体制の整備のため人を派遣する必要があったのです。ということで、私にお鉢が回って来たというわけです。
部長からは、「頼むぞ!落ち着いたら戻すから」と言われて山梨に向かいました。事実、山梨での勤務は2年間でした。もっとも、2年後に本社資材部に戻ったかというと、違う部署でした。そして、本社資材部に戻ることはその後もありませんでした。
自動車部品製造が主力の会社には3工場があり、本社に隣接した川崎工場は先にご紹介したように石油プラント向けの製品製造で、残る2工場が自動車部品の製造工場でした。そのうち山梨工場はブレーキ部品の工場で、従業員は800名ほど、当時で生産額はブレーキ製品としては国内2位だったと思います。
工場は、現在の南アルプス市(当時の櫛形町)、甲府から身延山に向かう国道の中間地点、櫛形山のふもと、山梨といえばブドウと桃、春になれば周りは桃源郷に変貌するそんなのどかな場所にありました。
住まいは、横浜の独身寮から、今度は工場から車で10分ほどのやはり独身寮でした。当時免許は持っていなかったので、近くに住む同じ調度課の同僚の車に毎日同乗させてもらっていました。その車の免許、山梨の2年間の勤務の間に何とか取得したのですが、それが大変でした。その話はいずれしたいと思います。
ということで、山梨での勤務が始まりました。次回以降、山梨勤務での出来事をご紹介していきたいと思います。
本日はここまでです。次回は山梨工場調度課のご紹介をしたいと思います。
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