私は広場を真ん中に長屋が囲むところで育った。
当時は醤油や砂糖を借り合う風情が残っていた。
数件隣に在日韓国人の家族がいた。
周りの人たちとの屈託のない交流があった。
寒空の下、何かのことでやけになり泥酔した父親の
暴力から逃れる幼い私たちを一番心配してかくまって
くれたりしたのがこの家族であった。
「・・ちゃん、たいじょうぶ、うちもたいへん、でも、
・・ちゃんのとうさん、たいじょうぶ・・」
我が家に招待して夕食を共にし、「アリラン」を初めて
聞いたのもこの頃である。
そこには、その家族の私たちより年長の2人の子ども
(女の子)の底抜けに明るい笑顔があった。
その一番年下の子は特に面白く、時に過激な冗談で
私を笑わせた。私が「こら・・」と頭をこずくと、
「えへへ・・」と笑ったものである。
その家族の子どもたちが大きくなった頃、
子どもたちの顔から笑顔が少なくなっていた。
学校や就職などで色々嫌なことがあったようだった。
やがて家から出て遊ぶ姿も見なくなった。
少し父親の酒乱もあったと聞くが、外からは見えなかった。
私たち家族がそこを去る前に聞いた、万感の想いをこめて
「アリラン」を唄う父親の寂しそうな横顔が今でも思い出される。
・・その後も父親は在日であろうが、中国人であろうが、刑務所帰りで
あろうが人を分け隔てることはなかった。(不覚にも当時の私にはその心が
理解不能であった)
しかしそれは母親にとっては大きな荷を背負うこと、名家の血筋故の
差別意識のなごりとの葛藤を生じさるものとなった。
それで、そうした人たちとの付き合いのことで時折ぼやく姿があったが
それこそ不思議な縁ともカルマとも言える代物だったのかもしれない。
*アリラン