社労士みょうみょうのちょこっとセミナー

社会保険労務士の仕事を通して思ったことや考えたことを書いています。また制度や法律について、自分なりの解釈でお伝えします。

労働基準法ができる前その2

2014-03-15 05:41:28 | 労働基準法
 前回は戦争の歴史でしたが

今回は産業の歴史です

明治政府は、紡績業(綿糸の生産)・製糸業(絹糸の生産)などの
軽工業を推進しました

1972年(明治4年)には鉄道が開通し
群馬県に富岡製糸場ができています

政府が外国から機械を入れたり技術者を呼んだりしました

最初のうちは、政府が直接いろんな工場を運営していましたが
民間に払下げられ、民間の会社が増えていきました

八幡製鉄所もでき、重工業も発展していきました

工場ができると、そこで働く人が必要になります

工場労働者の多くは
零細農家の次男・三男・娘たちでした
貧しい家計を助けるため
10歳になるかならないかの年齢で
働きにでていました
(この当時、一応小学校4年までが義務教育でした)

大規模な紡績会社では労働者の大半が女子で
昼夜ニ交代の12時間労働(実働11時間)
休日は隔週1日、日給7~25銭ぐらいでした

小規模な工場の多い製糸業や織物業では
労働条件がさらに厳しく
労働時間は1日16~17時間だったそうです

彼女たちは寄宿舎で生活していましたが
衛生状態は悪く、肺結核などの病気に
かかる人が多かったようです

『ああ野麦峠』で有名ですね

官営の砲兵工場の男子労働者は
1日10時間労働で日給は30~35銭
時間外労働を含めて1日50~70銭の賃金
だったそうです
(山川出版社・現代の日本史より)

ところで

日給7~25銭って、今の感覚だと
いくらぐらいなんでしょうか?

当時の米の価格が1升(1.5キロ)15銭くらいです

ってことは…

1日に11~16時間働いて230円~750円
1つきに28日はたらいて6500円~21000円か…

ちなみに当時の大卒給与生活者の初任給は
月給132000円~165000円
(当時の貨幣で40~50円)

すさまじい違いです
20倍以上の差があります
現在の格差とは桁(ケタ)が違います

他所の国の話のようです

これじゃいかん!なんか規則作って
年少の労働者を守らねば!と
政府も思っていたのです

少年少女の夜間の就業禁止や
毎月2回の休日などを盛り込んだ
工場法案なるものが出ていたのですが
産業界からすごい反対がおき
成立には至りませんでした

政府は修正を余儀なくされ
ようやく1911年(明治44年)
工場法が成立しました

しかし

日本の産業の中心をなす中小工業経営者に
負担をかけるものであること
少年・少女の夜間就業禁止により
紡績業が不利になる点をあげて
猛烈な反対運動がおき
結局この法律が施行されたのは
5年後の大正5年でした

この工場法こそが、労働基準法の前身である
労働保護法です 


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