魚鳥木、申すか?申さぬか?

ぎょ・ちょう・もく、申すか?申さぬか?
申す!申す! 魚⇒ニシキゴイ。鳥⇒ニホンキジ。木⇒制定無し、花は桜と菊

老子『道徳経』を翻訳してみました。38

2017年09月23日 | 老子『道徳経』
英語と中国語を学ぶため 
老子『道徳経』を 翻訳してみました。
訳に間違いが有りましたら御教示下さい。


老子『道徳経』
Laozi『Tao Te Ching』


第三十八章
原文

上徳不徳、是以有徳。下徳不失徳、是以無徳。上徳無爲、而無以爲。下徳爲之、而有以爲。上仁爲之、而無以爲。上義爲之、而有以爲。上禮爲之、而莫之應、則攘臂而扔之。故失道而後徳。失徳而後仁。失仁而後義。失義而後禮。夫禮者、忠信之薄、而亂之首。前識者、道之華、而愚之始。是以大丈夫、處其厚、不居其薄。處其實、不居其華。故去彼取此。

英訳文
A person with true virtue is not conscious of his virtue. So he can keep virtue. A person without virtue tries to keep his virtue. So he can not keep virtue. A person with true virtue especially does nothing. A person without virtue does good to become a good person. A person who values benevolence just does good. A person who values justice does good, but he wants to be praised. A person who values courtesy does good, but he also requires others to do the same as he does. There is "the way" first. After "the way", there is virtue. After virtue, there is benevolence. After benevolence, there is justice. After justice, there is courtesy. Courtesy was made up after losing sincerity and honesty. Courtesy is the very cause that is confusing the world. If you teach benevolence, justice and courtesy with knowledge to people, they will become fools. So a person with true virtue chooses sincerity, not knowledge. He chooses a fruit, not flowers which only look beautiful. He chooses "the way", not benevolence, justice and courtesy which only sound nice.

書き下し文
上徳(じょうとく)は徳とせず、ここを以(も)って徳あり。下徳(かとく)は徳を失わざらんとす、ここを以って徳なし。上徳は無為にして、而(しか)して以って為にする無し。下徳はこれを為して、而して以って為にする有り。上仁(じょうじん)はこれを為して、而して以って為にする無し。上義(じょうぎ)はこれを為して、而して以って為にする有り。上礼(じょうれい)はこれを為して、而してこれに応ずる莫(な)ければ、則(すなわ)ち臂(うで)を攘(はら)ってこれを扔(ひ)く。故に道を失いて而して後に徳あり。徳を失いて而して後に仁あり。仁を失いて而して後に義あり。義を失いて而して後に礼あり。それ礼なる者は、忠信の薄きにして、而して乱の首(はじめ)なり。前識(ぜんしき)なる者は、道の華にして、而して愚の始めなり。ここを以って大丈夫(だいじょうぶ)は、その厚きに処(お)りてその薄きに居らず。その実に処りてその華に居らず。故に彼れを去りて此れを取(と)る。

現代語訳
徳が充分に備わっている人間は、徳そのものを意識する事がないので徳が離れる事は無い。徳の少ない人間は、徳を失うまいとするあまりに徳が離れていってしまう。徳が充分に備わった人間は無為を保ってことさらに何かをしようとはしない。徳の少ない人間は立派な人間になりたくて善い事をしようとする。例えば仁を重んじる人間は、何か善い事をしようとする。義を重んじる人間は、善い事をしながら自分も褒めてもらおうとする。礼を重んじる人間は、自分がしている善い事を他人にも無理やりやらせようとする。つまり最初に「道」があって、その後に人としての徳があり、徳が失われて仁があり、仁が失われて義があり、義を失った人間が辿りつくのが礼なのだ。 とくに礼などというものは、人々から真心や信義が失われた後に作られたものであって、これこそが社会を乱すもとなのだ。 仁や義や礼といったものを知識という形で教え込もうとすれば、「道」からはずれた愚か者を生み出すだけだ。だから本当に立派な人間というのは、手厚い真心を大事にして薄情な知識を捨てる。物事の実を大事にして見栄えのよい花を選んだりはしない。聞こえが良いだけの仁義礼といったものを捨てて「道」を選ぶのだ。

老子『道徳経』を翻訳してみました。39 へ続く。




ビジネスリーダーのための老子「道徳経」講義
田口佳史
致知出版社

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 老子『道徳経』を翻訳してみ... | トップ | 老子『道徳経』を翻訳してみ... »

コメントを投稿

老子『道徳経』」カテゴリの最新記事