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飯能のまち 3(旧市街地)

2005年08月02日 | Weblog
飯能市は今まで紹介した通り、名栗川の谷口集落として成立したまちです。
旧市街はその姿を残している場所です。
その旧市街地がどんな性格を持つか見てみます。

谷口集落とは飯能のほかには、
八王子・青梅・小川町・寄居・児玉・高崎・桐生・足利
なども谷口集落といえます。

これらの町は上流部の山村地域と平野部との接点としての役割を持っています。

飯能は名栗川が秩父山地から平野部に流れ出る地域に発達したもので、
名栗川の上流、名郷・名栗・原市場などを背景としているほか、
高麗川の上流、吾野地域も後背地としています。

地図を見れば分かるのですが、高麗川の谷口には、
高麗(日高市)というまちがあります。
なぜ高麗ではなく、飯能が地域の中心として発展をしたのか?
この疑問に答えるには、広域的な都市の配置が関係していそうです。

八王子から高崎に至るJR八高線は、秩父山地と関東平野を分ける、
「八王子-高崎構造線」にほぼ沿っており、
この構造線上に前述の谷口集落が分布しています。
結果論のようでありますが、この地域ではこの構造線に沿って
概ね10kmの距離間隔で飯能・越生・小川・寄居…と拠点都市が連なっています。
これらの都市は、互いに八王子から高崎へ抜ける往還(絹の道)で結ばれ、
10kmの距離間隔により一定の独立性を持っているといえます。

飯能と高麗との距離は3~4kmしか離れていないため、
競合が起き、互いに中心として存立が出来ず、
他都市との距離などからくる立地の優位性から飯能が栄えたと考えられます。

以上のように飯能は名栗にとどまらず、高麗川も後背地として発展をしました。
これらの地域は「西川林業」と呼ばれる一大林業地帯です。
そのため製材拠点としての性格を色濃く残していると思えばそうではなく、
むしろ織物や広域に及ぶ商業中心地として性格を持つ建物が残されています。

私は今回、ちょうどお祭りの時に飯能を訪れましたが、
飯能銀座・飯能大通りは普段は寂しい通りとなっています。
ところが飯能大通には黒塗りの土蔵建築の商店が何軒も見られ、
往事の発展を見ることが出来ます。
写真は「広小路」付近の蔵づくりで、「うだつ」も見られます。
周囲にはいくつも目を引く建物が多く見られます。
若干駅からは離れ、交通量は多いですが、明治期から残る建築物が多く見られる場所です。
青梅のように、関連のない映画看板で台無しにされることもなく、
まさにこれらの建築物が今置かれている状態を見ることが出来ます。

山地と平地、ベッドタウンと地方都市など、幾つかの要素の狭間にあるまちが
飯能に見られます。飯能駅からふらりと歩いて、なんの変哲もないまちの中に
都市化の変遷を見るのも楽しいかも知れませんね。

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