11月15日は第4回ふれあい交流祭でした。事前準備のため各教室から委員の方々が
何度も委員会を開いて努力してくださいました。
わが摂津教室は 展示部会に班ごとにテーマを決めて出展をしました。
テーマに沿ってはみんなでいろいろな場所に行って話を聞いたり、写真を撮ったり
した作品を完成させて交流祭に臨みました。
摂津教室の紹介 摂津教室の展示
1班 小野小町 2班 鑑真
3班 聖武天皇 4班 摂津を知ろう
11月15日は第4回ふれあい交流祭でした。事前準備のため各教室から委員の方々が
何度も委員会を開いて努力してくださいました。
わが摂津教室は 展示部会に班ごとにテーマを決めて出展をしました。
テーマに沿ってはみんなでいろいろな場所に行って話を聞いたり、写真を撮ったり
した作品を完成させて交流祭に臨みました。
摂津教室の紹介 摂津教室の展示
1班 小野小町 2班 鑑真
3班 聖武天皇 4班 摂津を知ろう
若井敏明先生の「伴善男と応天門の変」の講義です。
①藤原義房 ②応天門の変 ③事件の説話化 ④伴大納言絵巻の順で講義あり。
①藤原義房
大伴氏の衰退に伴い藤原氏が台頭してきたことを家系図を用い説明されました。
伴善男の誕生以前に大伴家は衰退しつつあったが、それに追い打ちをかけて藤原氏が勢力を伸ばし、特に藤原義房の活躍が顕著であることを解説。
嵯峨上皇の崩御→道康親王即位(文徳天皇)→惟仁親王(のちの清和天皇)の生後八か月での立太子への擁立→九歳での即位→良房の万機摂行<事実上の摂政の初め> を時代を追って説明。
②応天門の変
清和天皇時代の朝廷
太政大臣・藤原良房 左大臣・源信(ミナモトノマコト)右大臣・藤原良相<良房の弟>
伴善男の台頭
参議から中納言、更には大納言へ昇格(大伴家では旅人以来)
曾祖父(古麻呂)祖父(継人)父(国道)とも不遇をかこった。
淳和天皇(大伴親王)の即位にともない大伴姓から伴姓に改名(されられた?)
応天門の変
・貞観8年(866年) 応天門の火災により棲鳳・翔鸞両楼を延焼
・伴善男、藤原良相と共謀し源信の失脚を図るが、藤原良房が介入し失敗。
『大鏡』裏書<注:巻物の裏に、注釈・補遺などを書くこと>に事件の経緯などが
記述されている
・事件の急展開
最初大納言伴善男は左大臣源信の所業としてその処罰を主張したが,
太政大臣藤原良房らの工作で無実が明らかになった。
が、左京の備中権史生大宅鷹取が伴善男・中庸父子が真犯人であると告げた
その結果、伴善男は伊豆に流罪、伴氏一族、さらに連座したとして紀氏一族
などが流刑などの処分を受けた。
事件の結末
ⅰ 伴、紀氏の没落
ⅱ 源信、藤原良相の事実上の失脚
ⅲ 藤原良房全権掌握 これに伴い養子(良房の長兄長良の実子)基経が信頼確保
若井先生のコメント;藤原氏の摂関政治が軌道に乗り始める。
この機会を利用し藤原氏は大伴氏・紀氏を排除することとした
紀氏は政治の世界から歌の世界に活路を見出した。
③事件の説話化
一連の事件経過は、『宇治拾遺物語』巻十「大納言焼応天門事」記述された
若井先生のコメント;この物語は芥川龍之介の作品(羅生門・鼻など)のタネ本
④『伴大納言絵巻』
応天門事件の模様を描いた「伴大納言絵巻」 インターネットより
若井先生の結論;伴善男は強引な出世をしようとして墓穴を掘った。
その後菅原道真が世に出てきた。
斉藤先生のパワーポイントに取り込んだ画像をみながらの 菅原道真 の講義です
菅原道真を以下の3つの角度からとらえて講義を進められました。
Ⅰ、歴史上の道真
Ⅱ、『大鏡』に描かれる道真
Ⅲ、天神として祀られる道真
Ⅰ、歴史上の道真 詩人で優秀官僚
父祖の代より文章博士を務める文人貴族の生まれ、幼少から詩歌や作文において
稀有な才能を発揮。才能に加えたゆまぬ努力により学者・詩人として名声を極む。
桓武天皇の侍読であった曾祖父菅原古人の時代に土師氏から菅原に改名。
祖父清公、父親是善の後継者として菅原家の家業を継ぎ名声を得た。
有能な政治家としても活躍し、宇多天皇の信任厚く右大臣にまで登り詰めた、が
醍醐天皇の治世に天皇の廃立を謀ったとして大宰府に左遷された(昌泰の変)
文章経国思想のとらえ方
通説:行政は文書による→故事・典籍を踏まえた流ちょうな漢文作成能力が必須
紀伝道=中国の歴史書『史記』『漢書』+文章道=漢文学『文選』
斉藤先生説:音声としての漢詩の役割(当時は黙読はなく声に出して文章を読んだ)
時機をつかみ、時機にあった正しい政治を行う
文章を書くことの意味(故事・典籍=普遍的な事象)は文飾ではない
大宰府左遷
◎左遷時代の道真への処置
・大宰府までの路次の国々による食事や馬の用意の禁止
・大宰府の行政に関与させず、任中の給与も従者も与えられなかった
◎大宰府での生活
・諦観と仏教(観音)信仰に明け暮れ病を得て延喜3年(903)数え59歳で死去
Ⅱ、『大鏡』に描かれる道真
平安時代後期成立とされる歴史物語。藤原道長の栄華を描く
藤原時平の道真に対する敵対心と道真の左遷
・道真下向の途次、大宰府での詩歌のすばらしさ
・道真死後の霊威(北野天満宮創始・虫食い和歌説話)
・時平一族は道真の祟りによって短命であった
・雷神となった道真が清涼殿に雷を落とす
1、道真は無実で左遷は時平の陰謀であるとの認識
2、道真の霊は死後北野の宮に渡り天神になったとの認識
3、清涼殿の落雷は雷神となった道真の仕業であるとの認識
4、道真は優れた漢詩や和歌を詠う人物としての認識
5、現在の北野社は霊験あらたかな神で天皇行幸もされるという認識
Ⅲ、天神として祀られる道真
二つの道真像
1、大宰府での道真信仰
大宰府安楽寺は道真喪葬の地、天拝山で無実を天道に訴えたところ「天満大自在
天神」になり、文道の神と認識され大宰府天満宮へ
2、都での道真信仰
時平の死去は道真と絡まず→道真左遷の宣命が破棄・焼却→右大臣に復し正二位
追贈→年号を延長に復元→清涼殿落雷を道真に関連付け→多治比あやこに託宣し
道真を天神として祀る→北野祭が官祭となり→正一位・左大臣、太政大臣追贈→
怨霊から国家の守護神へ→天神縁起説話、道真生前の伝説の作成など
『大鏡』的道真認識が確立した。
その後の展開
中世:天神縁起説話絵巻物の作成→天神道真礼賛
室町期:漢詩文の担い手が貴族から禅僧へ(渡唐天神)、北野の連歌会開催
江戸期:公家・武士・庶民へ広がった。藩校の神・寺子屋の守り神・手習いの神
とあがめられ、天神宮参拝が盛んとなった
近代:忠臣の鏡として楠木正成・和気清麻呂とともに取り上げられる
現在:学問の神・諸芸の神・農業の神として12000社程度天神社がある
今日は現地探訪ツアーです。斉藤恵美先生に解説をしていただき、興福寺・仮講堂で開催されている 阿修羅・天平乾漆群像展を鑑賞しました。
阿弥陀如来像を中心に、八部衆像<阿修羅・五部浄・沙羯羅・乾闥婆・緊那羅・鳩槃荼・畢婆迦羅・迦楼羅>、釈迦の十大弟子像のうち現存する六体<舎利弗・目犍連・須菩提・富楼那・迦旃延・羅睺羅 さらに 金剛力士像<阿形・吽形> 梵天・帝釈天像 華原磬 が安置され壮観である。
通常ならこのような群像が一か所に展示されることはなく、並び方もまた特別なものであり仮講堂という場所での展示でも工夫次第で面白くなるものです
先生が解説してくださった興福寺がたどった苦難の道について思うと、来年に予定されている中金堂の再建が待ち遠しいものです。
それから足を伸ばして、斉藤先生の母校であり講義をされている奈良女子大に向かいました。女子大らしく落ついた雰囲気の中で学んでいる学生さんがうらやましいです。
おりから開催されている「奈良女子大学 記念館 一般公開」も先生にご案内いただきました。重要文化財の旧奈良女子師範学校本館の中をゆっくり見学させていただき、二階講堂では学生ボランティアの方の解説を聞くことができました。
そこには百年ピアノと呼ばれている、学校創立当時に購入された国産最古級でまた、細部にわたり壮麗な彫刻が施されている今でも現役のグランドピアノが置かれており、皆で記念撮影をしました。まるで卒業生になった気分です。
奈良女子大学
学生食堂で学生さんに交じって昼食をいただいた後は県庁屋上展望台で寒風を受けながら360度の展望を楽しみました。
その後は自由解散となり、正倉院展を見学する人、ふれあい交流祭のテーマである聖武天皇について散策する人などいろいろでした。4班は「きたまち」の、般若寺・植村牧場・奈良少年刑務所跡・北山十八間戸などを訪れました。般若寺のコスモス、少年刑務所跡の美しい建物に魅了されました。
般若寺
今日は今までの人生の中で経験しなかった二つの新しい体験をしました。女子大と少年刑務所です。いい思い出になり、楽しくためになった現地探訪ツアーでした。
午前中は岩井敏明先生の「小野小町」(古今集)の講義です
①六歌仙
「古今和歌集」の紀貫之の仮名序による六歌仙の紹介(批評)
僧正遍昭:「歌の様は得たれどもまこと少なし」と厳しい見方をしている
在原業平:「その心余りて言葉たらず」
文屋康秀:「言葉はたくみにて そのさま身におはず」(言葉と歌のスタイルが一致しない)
僧喜撰:「言葉かすかにして 初め終はり確かならず」(残っている歌が少ない、なんで六歌仙に選ばれたのか)
小野小町:「いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて強からず」(歌のスタイルが美しい)
大友黒主:「そのさまいやし」(あまり高尚ではない)ちなみに小倉百人一首には選ばれていない
②小野小町の年代と出自
小野篁〈おののたかむら〉の孫娘説、小野良真の娘とも?
出自の諸説 参照:熊谷直春「小野小町の真実」
⑴采女説
⑵常寧殿(后町)に仕えた女房
⑶「厨町」で起居した女官
⑷仁明天皇の更衣、小野吉子またはその妹
⑸小野氏の氏女
⑹外命婦〈げみょうぶ〉(五位以下の官人の妻)小野貞樹の妻?
③小野氏と和珥氏〈わにし〉
小野氏は古代の豪族。和珥(わに)氏の同族。《古事記》の氏族系譜によれば孝昭天皇の皇子天押帯日子(あめのおしたらしひこ)命を始祖とする。天武朝の八色(やくさ)の姓で臣から朝臣となった。和珥氏同族の本拠である大和の添上郡(奈良市南東部)や,山城の愛宕郡小野郷(京都市左京区),宇治郡小野郷(京都市山科区)に勢力をもった。また近江の滋賀郡小野村(滋賀県志賀町)は氏の起こる所と伝え,氏神の小野神社があり,平安初期には同族の粟田氏,大春日氏,布瑠(ふる)氏も氏神として崇拝していた。
④小野氏の人々
小野小町のほかに歴史上に出てくる主な小野姓の人々
小野妹子・小野毛人(妹子の子)・小野篁 など
午後からは第3回ルーム講座でした。
摂津市保健福祉課 小林保健師による生活習慣病の予防についての講座です。
健診の目的は動脈硬化の予防であり、高血圧や糖尿病の予防のための食事・運動の方法などについて約1時間にわたり講習してくださいました。
三種の神器(腎臓・心臓・脳)は特に重要である旨説明し、「手ばかり栄養法」といったわかりやすい図で解説を受けました。
てきぱきとしたわかりやすい話ぶりで、面白くかつためになるルーム講座でした。
午前中に引き続き午後からも、斉藤恵美先生による「平将門」の講義です。
平将門
平将門について
・桓武平氏の一門で 鎮守府将軍良将(良持)の子
・生年不明 死没 天慶3年(940)2月14日 午前中に学んだ桓武天皇の5世子孫
・下総の所領問題で一族と争う
・その後武蔵野国の紛争に介入、常陸国府を襲撃・占領する等関東諸国の国府占拠
・「新皇」を自称し東国の独立を謀ったとして国家への謀反とみなされた
・この反乱は同時期に西国で起こった藤原純友の反乱と合わせて承平・天慶の乱という
時代を経るに従い様々な逸話や伝承の材に採られ、小説による創作も加わり将門伝説が形成
時代背景
・小帝国日本の放棄; 国民(公民)国土(公地)による人民統制理念の放棄
・軍縮;軍団兵士制の廃止
・公地から土地所有へ;人でなく土地を単位として課税
・地方政治の変容;国司の受領化と富豪層の対立と依存
・「東国」という場所;対蝦夷戦争の兵士・兵糧、坂東八カ国から供給 <坂東八カ国>相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)
将門の乱の経緯
・内紛以前;父良将の死後故郷に帰るも、叔父たちと土地をめぐる遺産争い
・平氏一族の内紛段階;承平5年(935)から天慶2年(939)年にかけ叔父達と内紛
・国家へ謀反とみなされた段階;武蔵野国の国司と郡司の紛争に介入
・将門死去;天慶3年(940)川口村の合戦にて矢にあたり死去、首は東市に晒された
将門の乱の原因
・郡司と国司の確執
・受領国司と任用国司の確執
・私営田領主と国司の確執
後世への影響
・平安貴族のトラウマ;騒動や戦乱時にその大きさを推し量る基準となった
・武士のイエ(血族);平安中期以降の武士の条件は特定の血族に属することとなる
将門伝説の形成
❶冥界伝説 ❷調伏伝説 ❸祭祀伝説 ❹王城伝説 ❺首の伝説 ❻鉄身伝説 ❼七人将門伝説 ❽東西呼応の伝説 ❾将門一族の伝説 ❿追討者の伝説
斉藤先生の平将門の寸評 時代が生んだちょっと早すぎた武将
午前中に「桓武天皇」午後は「平将門」とどちらも重いテーマの授業を受講しました。再来週に「現地探訪ツアー」を予定しているため一部授業を繰り上げ実行したもので、これもまたいい経験となりました。
午前中はオープンキャンパスが開かれ10数名の方が参加してくださいました。
授業は斉藤恵美先生の「桓武天皇」
先生はいつも以上に張り切って、スライド・年表・系図・地図を駆使し、休憩をはさんで2時間ぶっ通しで、講義をしてくださいました。
桓武天皇 奈良時代から平安時代へ
桓武天皇プロフィール
・天平9年(737)から延暦25年
・在位期間は天応元年(781)から延暦25年(806)の25年間<この時代の平均年齢は60歳くらい、在位期間は普通よりやや長い程度>
・実父光仁天皇譲位により即位
・延暦3年(784)長岡京に遷都、延暦13年(794)平安京に遷都
桓武天皇という人物
「造作」と「軍事」によって千年の都京都の礎を作った天皇
・従来のしがらみから離れた新しい政治を模索
・社会の中で日本という国のあり方の模索
・怨霊の登場
生まれてから即位まで
・藤原氏と反藤原氏一族の攻防という奈良時代の政権史の中で実父光仁天皇が即位
・桓武天皇は母方の出自が低く(渡来系)皇位につくことは予測されなかった
・異母(井上内親王)異母弟(他戸親王)が巫蠱<ふこ>といった怨霊事件連座
・そのため43歳という高齢で即位
新たな皇統意識
・即位の詔<みことのり>;即位の根拠を天智天皇の定めた法に置く
・天神郊祀;中国皇帝の郊祀祭に倣い始祖を光仁天皇とし天智系の新王朝を宣言
・長岡京遷都:畿内諸国の私的な寺院の新設・建立・移転を禁止、 遷都の理由として交通網の変化、東国との関連性、奈良時代の政権構想からの離脱などがあげられる
・平安京遷都:遷都の理由が見つからない。あえて挙げれば、洪水、怨霊問題、四神相応の土地であったことなどか?
遷都の目的
・大和から離れることで新しい国家の中心を形成
・政争に中立の立場に注目し渡来系の人物を重視
・対蝦夷戦争、曖昧領域としての蝦夷を公民化、関東以北支配を完成する
・怨霊におびえる天皇
斉藤先生による桓武天皇評
・力強い天皇で、日本のあり方を考えていたがおびえている。 ・後世にあまり悪口を言われない徳政をした天皇である。
午前中は 若井敏明先生の紀貫之『土佐日記』の講義でした。
①『土佐日記』とは
土佐から帰京する紀貫之の仮名の日記
②紀貫之 歌人としての活躍
・延喜5年(905)『古今和歌集』の編纂に従事
仮名序は紀貫之、真名序は紀淑望(きのよしもち)が書いたといわれる。
・延長8年(930)土佐赴任中に醍醐天皇の命を受け『新撰和歌』を編纂
③『土佐日記』冒頭
男もすなる日記というものを、女もしてみむとて、するなり。
・当時仮名を使うのは女性であり、男性は真名(漢字)を使うのが一般的であった。
・紀貫之は国司としての任務が終わり、その帰り道での旅の日記である。
<先生からの一言知識>・国司が任地に赴くことを受領(ずりょう)といい、赴かないで仕事をすることを遙任(ようにん)といった。
④阿倍仲麻呂への回顧 ・・参考 阿倍仲麻呂は本講座にて7月3日に受講済・・
遣唐使として唐に渡った仲麻呂を思い、仲麻呂の作った歌について回顧している。
あをうなばら(本当はあまのはら)ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも
唐と日本では言葉は違っているが、月の光は同じで違いないので、それを見て感じる人の心も同じであろう。
⑤海賊の恐怖
連日のように海賊の恐怖について日記に書いている。この時代は瀬戸内海で海賊が横行、藤原純友の乱など事件も多発。
⑥住吉の神
ちはやふる神のこころのあるる海に鏡を入れてかつ見つるかな
舵取りから「住吉の神は海の神でありなにかお供えを」と言われ「目玉でさえ二つあるのにたった一つしかない鏡を供えるのは悔しい」といいつつお供えをした。
⑦淀川遡行
長い日数をかけて淀川を遡行、淀川の上り(のぼり)であり結構大変な旅だったようだ。
ちょうどわがクラスの受講場所である摂津市のことが記されている(例えば鳥飼の御牧)しかも、4班はその「摂津について」をふれあい交流祭のテーマにしているので興味深いものがある。
⑧帰京 山崎から牛車で京に向かう。
参考 摂津市にある離宮鳥養院址
校外学習として、国立民族学博物館の開館40周年記念展である「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」を見学してきました。
特別展「シーボルトの日本博物館」の展示は多岐にわたり、また丁寧な説明文などが添付されていて午前中の2時間でも全部を見て回るのが精一杯でした。
マッサンカレーランチ 1380円
昼食を挟んで午後からは各班に分かれましたが、本館常設展を見て回った人が多いようです。ここはさらに多くの展示が各ブースに分かれ、全世界の民族衣装・住居・生活ぶりなどの展示物がいっぱいです。とても一日では回り切れない展示に驚きました。 晴天に恵まれ気持ち良いひと時を過ごしました。
本日は、関西大学で平成29年度 第1回大学提携授業 として 関西大学政策創造部 橋本行史教授 の 講義を拝聴しました。
10時半から開始の講義に9時半過ぎから「学生」が続々登校してきます。広いキャンパスの中のエスカレーターを使って、学生気分を味わいながらの登校も楽しいものでした。
講義は「大阪の酒:いま・むかし」という内容で、なぜ「大阪の酒」の復活が必要かということを、大阪における日本酒の歴史、現状などをデータを交えて進めていかれました。
約1時間半にわたる講義の後に 、ONCC猪谷理事長が謝辞を述べ、午前中の提携授業が終了しました。
その後、50年ぶりに「学食」での昼食をワイワイガヤガヤ、学生?気分に戻って楽しみ、60円で食べたラーメンライスを思い出しました。さらに、博物館・高松塚古墳壁画再現展示室・豊臣期大坂図屏風などを見学し、一日中提携授業を満喫させてもらいました。次回以降の提携授業も楽しみです。
食堂へ急ぐ 「学生諸君」
広い学食
まるでバイキングのランチ733円