ONCC摂津教室 平成29年度第5期生 歴史と文学の”人と心”を学ぶ科

摂津市コミュニティセンターで、若井敏明先生、鈴木明子先生、斉藤恵美先生の先生方が交代で講義していただく教室です。

H29.12.18.(午後)ルーム講座 皇位継承・三種の神器

2017年12月18日 | 日記

 歌人・歴史家の林和清先生のルーム講座でした。今こそ知りたい天皇家の歴史と

いうことで、タイミングの良い企画でした。

先生の歯切れのよいマイクなしの講義はその内容をも含め充実した午後となりました。

皇室典範は二つある。

旧:大日本帝国憲法と同時に制定され、憲法とともに我が国最高の成文法である

新:第二次世界大戦後、旧皇室典範は廃止され、日本国憲法と同時に施行された

 新「皇室典範」がある。名称は残されたが単に普通の法律と同じになり、国家

 の統制が及ぶこととなった。

三種の神器

 天孫降臨時に天照大神から授けられたとされる鏡・剣・玉を指し、日本の歴代

 天皇が継承してきた。  *八咫鏡 *八尺瓊勾玉 *天叢雲剣

皇位継承問題

 1、戦後の伏見宮系の皇籍離脱により、皇族の数が減少。

 2、大正天皇の側室廃止以来、皇室は一夫一妻制を採っていること

 3、秋篠宮親王以来悠仁親王誕生までの間に誕生した皇族9人がすべて女性

 4、悠仁親王以降皇室に男子が生まれておらず、当分誕生の見込みがない

 皇位継承資格者の不足解消策

 ①男系のみならず女系にも皇位継承資格を認める

 ②皇籍離脱した男子を皇籍復帰させ、男系継承を維持する

「皇室典範に関する有識者会議」

 女系容認論の主張・・・絶対的に皇族の人数が不足する

 男系容認論の主張・・・民間の血が入りすぎる、皇室の権威が問題となる


 

いずれにしても平成30年4月30日に今上天皇が生前退位され、皇位継承は国事行為

として粛々と進められるころになるが、今後も皇位継承問題は続くことになる

 


H29.12.18. (午前)藤原道長 

2017年12月18日 | 日記

 

阪急電車の人身事故の影響で30分くらい開始が遅れ

ました。午前中は鈴木明子先生の「藤原道長」です。

遅れのせいか息せき切って講義を始めた先生の初々

しい表情をみました。

 『藤原道長』

 平安中期の政治家。摂関政治の全盛期を築き、貴族の頂点に君臨栄華を誇った

三人の娘が中宮(皇后)となり娘に生まれた三人の皇子がそれぞれ天皇となった

(1)貴族の世界

①貴族とは:日本の貴族は中国から学んだ律令制から逸脱し、聖武天皇の墾田永年

 私財法、有力貴族・寺社への税金免除など原則を逸脱した不思議で矛盾した存在

 中央政府は全く機能しなかった。

②平安貴族の範囲:30階級中の三位までを上級貴族、四・五位を中級貴族それ以下

 を下級貴族とした。官僚となる以外職はなく、出世が唯一の道。

③儀式万能の時代:万事が儀式として扱われ儀式に明け暮れた時代。 

④摂関政治と当時の婚姻(婿取婚)

 1、摂関政治:藤原氏が摂関を独占、天皇の政治の代行補佐を行い実権を握る。

 2、婿取婚:庶民層を含め妻方に居住、夫の両親と同居することは全くない。

(2)道長の生涯

①道長の生い立ち:藤原兼家の5男、勝気な男の子であった

②摂関政治と権力争い・・道長の父藤原兼家の場合

  左大臣源高明失脚、藤原氏の独占的地位確立、藤原家内部での権力争い熾烈

 1、兼道 対 兼家 (兄弟対決)

 

 2.花山天皇の退位:藤原兼家の計略により花山天皇は出家

 3.父兼家の摂政就任と道長の異例の出世

②父と兄たちの相次ぐ死:父兼家の死後も、疫病などで兄弟が相次ぎ亡くなった

  *姉(詮子)に愛された道長 : 『大鏡』に記載されている

③中関白家の没落:道長の兄、道隆一族と反目抗争を続け、道隆の長男伊周が

  花山法王に弓を射掛けるに及んで地方へ配流、以後没落に至った。

④彰子の入内(じゅだい)と出産

 1.一条天皇と中宮定子の愛:伊周配流後も一条天皇は伊周の妹である定子を

   寵愛、没落した家系のものを受け入れた天皇を世間は非難した

 2.史上最年少の入内:一方一条天皇は道長の娘彰子を入内させ、定子・彰子

   のそれぞれが懐妊、天皇は一帝二后とした(前代未聞)

 3.懐妊と出産

  *孫がかわいくてならない道長:彰子の子敦成親王(後一条天皇)を溺愛

  *酔い泣きする道長(土御門邸行幸):『紫式部日記』

   参考:紫式部は彰子に仕えていた

⑤この世はわが世:その後は道長一族が繁栄、太皇太后・皇太后・中宮の三宮が

   すべて道長の娘(一家三后)

⑥道長の悲しみと死:自身の病気と一家の病死などが続き道長は衰弱

(3)浄土信仰(阿弥陀仏の国土である西方極楽浄土へ往生することを願う)

 

極楽浄土信仰

 

①病弱な道長--病気と浄土への願い:病気と闘いながら浄土信仰を強めた

②平安貴族と浄土信仰:平安中期に極楽浄土信仰は急速に広まった『往生要集』

  道長は法成寺を建立し、浄土教の作法に従い臨終を迎えた、享年62歳

 


H29.12.11. 花山天皇

2017年12月11日 | 日記

午前の講義は鈴木明子先生の花山天皇でした。

なじみの少ない天皇でしたが即位前後の

状況等を聞いて思わず引き込まれてました。

この講座のクラス名「歴史と文学の”人と心”

を学ぶ科」らしく『大鏡』『栄花物語』など

書物から引用をたくさんしていただいたので

わかりやすかったです。

 

花山天皇 (968-1008)第65代の天皇、在位期間984-986の1年10か月

(1)父冷泉天皇 (第63代)

①「狂気」の天皇;18歳での即位前後の時期から精神的疾患を発病か?

②出生と怨霊;出生時にライバルの中納言藤原元方(民部卿)側にも子供誕生

   元方は憤死し怨霊(もののけ)となって現れた

(2)花山天皇の生い立ち

①誕生の喜び;生後10か月で立太子、冷泉天皇退位、64代円融天皇即位

②相次ぎ肉親の死;幼年期の祖父、叔父、生母が相次ぎ死去

         後見を次々に失い、政治的に孤立無援

(3)即位---17歳で即位

①「内劣りの外めでた」;藤原義懐・藤原惟茂が治世を補佐

 1、内劣り;常識にとらわれない奔放なふるまいが多い。執着する傾向

 2、外めでた;荘園整理令・物価統制法・倹約令・殺生禁断令(仏教の影響)

②突然の出家;花山寺に出かけ、そのまま出家

③出家の要因--政治情勢;藤原兼家の策略、摂政として政権掌握の道が開ける

④出家の要因--愛妃忯子の死;忯子の死は花山天皇・藤原義懐の政治的敗北

⑤出家の様子;天皇不在に宮中は大騒ぎ、藤原義懐・藤原惟茂がともに出家

(4)退位後

①仏道修行;書写山円教寺へ御幸、帰京後すぐに比叡山で戒を受け熊野修行へ

②帰京後;正暦3年(992)--女性関係 乳母とその娘を相次いで妊娠させた

③乱暴さ;ミカンで作った数珠をもつなど奇抜な恰好をした

④多方面の才能;歌に優れ、屋根の檜皮葺を続けて葺くことを考えた

        出家後庶民の家などを廻っていたこともあった

⑤孝行息子;父親の冷泉院に歌を奉り、冷泉院からは返歌があった

    パワーポイントを使ってたくさんの資料を見せてくれました

H29.12.11. 花山天皇

 後日談:花山院は出家後三十三観音霊場を巡礼して大きな法力を身につけた

     花山法皇の 観音巡礼が西国三十三所巡礼として現在まで続く

     各霊場で詠んだ歌が御詠歌とされた。

 


H29.12.04. 藤原清衡 & 地域交流会 

2017年12月04日 | 日記

午前中は若井敏明先生の『藤原清衡』の講義でした。

内容は藤原三代(清衡・基衡・秀衡)についてです。

①平安時代後期の東北地方

②前九年の役

③後三年の役

④奥州藤原氏とその仏教文化

⑤中尊寺供養願文

⑥奥州藤原氏の実力

 について、パワーポイントの写真や地図、系図などで説明してくださいました。

①平安時代後期の東北地方

 現地豪族(俘因の長)の実効支配・奥州安倍 対 出羽の清原・国司との関係

②前九年の役 事実上は清原と安倍の戦い、

 源氏と清原氏は同盟清原軍が実権を握っていた

 陸奥守源頼義はあまり活躍せず失意のうちに朝廷へ戻る

 厨川橋の陥落により清原氏が台頭してきた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ③後三年の役

 実態は清原家の内紛、陸奥守源義家は清衡側についた。

 義家は内紛(プライベートに介入した)とみなされ朝廷から召喚された

 最終的に得をしたのが清衡であり、藤原氏を名乗ることとなった。

④奥州藤原氏と仏教文化

『吾妻鏡』清衡已下三代造立の堂舎の事、源忠已講・心蓮大法師等これを注し献る

『寺塔已下注文』

  一、関山中尊寺の事;寺塔四十余宇、禅坊三百余なり。清衡在世三十三年の間

     我が朝廷歴・園城・東大・興福等の寺より、震旦(中国)天台山に至る

     まで、毎寺千僧を供養す。

  一、毛越寺の事;堂塔四十余宇、禅坊五百余宇なり、基衡これを建立す。

   藤原氏は平和を金で買っていたが、源頼朝には通じなかった

⑤中尊寺供養願文

  鐘の音が聞こえるところはみな平等、これからは争いを二度としてはいけない

  (実は都から攻めてこられないようにするというのが本音)

  中尊寺は朝廷のために建立した寺であることを強調した。

 

平泉中尊寺  拝観のしおりより

 

⑥奥州藤原氏の実力

 『十訓抄』(二代目基衡の話)基衡は、果敢剛腹な人物として描かれている

 『吾妻鏡』 奥州平泉の藤原氏に匿われている源義経をめぐる京・平泉・鎌倉間の

           駆け引きと、奥州合戦が焦点となる。

          秀衡亡き後、奥州藤原氏の家督を継いだ泰衡は、文治5年(1189)閏4月

           鎌倉からの圧力に耐えかね、とうとう義経を自害に追い込む。

          それでも頼朝泰衡を許さず、泰衡追討の宣旨を待たずに自ら大軍を率いて

           奥州に向かい進発する


  午後からは、地域交流会として各地域のOB会の紹介、さらに教務部準備のDVD

『悲運の后と清少納言』を鑑賞しました。清少納言は二週間前の講義テーマであり

おさらいと補完になりました。