午前中は若井先生の「大伴家持」の講義でした。
講義中の若井先生
以下の項目を順番を追って説明してくださいました。
①大和朝廷と大伴氏
②近江朝廷(天智天皇~大友皇子)における大伴氏
③天武~文武朝の大伴氏
④大伴旅人 大伴安麻呂の子供・家持の父親
役人として大納言まで上り詰めたが大宰府に流され悶々としていたことを酒にまぎらせたの か酒に関する歌が多い
⑤大伴家持と(718年~785年)と奈良朝の政局
旅人没後は旅人の妹である「大伴坂上郎女」(万葉女流歌人として平成29年6月24日に受講)が重要な役割を果たした。家持は天平の不安定な政局(天然痘大流行・聖武天皇の新都構想・安積親王死去など)の中で内舎人からやっと従五位下の地位に就いた。
その後、越中守となり赴任、多くの歌を詠んだ。そのため富山県高岡市周辺には家持の歌碑がたくさん建てられている。
東大寺大仏殿の建立に必要な金が東北地方から出てきたので聖武天皇は大判振る舞いをした。家持は「聖武天皇が大仏を造るという良きことを始めたので金が出てきたのはめでたいことだ」という意味の歌も詠んでいる。
家持の万葉集最後の歌 <天平宝字3年(759年)>
新しき年の初めの初春の今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)
藤原仲麻呂暗殺未遂事件に関与さらに薩摩守となり赴任
⑥奈良末~平安初期の政局と家持
称徳天皇(孝謙天皇の重祚)死去、道鏡の失脚の中で、家持は中務大輔に任官、正五位下に叙位。さらに参議となり、その後春宮大夫を死去まで兼務、中納言を経て延暦4年(785年)死去。
家持は万葉歌人と知っては有名であり、万葉集全20巻のうち17.18.19巻は家持の歌日記である。しかし<天平宝字3年(759年)>の歌が最期となったのはなぜか疑問が残る。ただし政治家としては父旅人が大納言まで昇りつめたのに比し、中納言でその一生を終わっており父親には及ばなかった。