ONCC摂津教室 平成29年度第5期生 歴史と文学の”人と心”を学ぶ科

摂津市コミュニティセンターで、若井敏明先生、鈴木明子先生、斉藤恵美先生の先生方が交代で講義していただく教室です。

H29.10.30. 現地探訪ツアー 興福寺 と 奈良女子大学

2017年10月30日 | 日記

 

今日は現地探訪ツアーです。斉藤恵美先生に解説をしていただき、興福寺・仮講堂で開催されている 阿修羅・天平乾漆群像展を鑑賞しました。

 阿弥陀如来像を中心に、八部衆像<阿修羅・五部浄・沙羯羅・乾闥婆・緊那羅・鳩槃荼・畢婆迦羅・迦楼羅>、釈迦の十大弟子像のうち現存する六体<舎利弗・目犍連・須菩提・富楼那・迦旃延・羅睺羅 さらに 金剛力士像<阿形・吽形> 梵天・帝釈天像 華原磬 が安置され壮観である。

 通常ならこのような群像が一か所に展示されることはなく、並び方もまた特別なものであり仮講堂という場所での展示でも工夫次第で面白くなるものです

先生が解説してくださった興福寺がたどった苦難の道について思うと、来年に予定されている中金堂の再建が待ち遠しいものです。

 

 それから足を伸ばして、斉藤先生の母校であり講義をされている奈良女子大に向かいました。女子大らしく落ついた雰囲気の中で学んでいる学生さんがうらやましいです。

 おりから開催されている「奈良女子大学 記念館 一般公開」も先生にご案内いただきました。重要文化財の旧奈良女子師範学校本館の中をゆっくり見学させていただき、二階講堂では学生ボランティアの方の解説を聞くことができました。

 そこには百年ピアノと呼ばれている、学校創立当時に購入された国産最古級でまた、細部にわたり壮麗な彫刻が施されている今でも現役のグランドピアノが置かれており、皆で記念撮影をしました。まるで卒業生になった気分です。

 

奈良女子大学

 

学生食堂で学生さんに交じって昼食をいただいた後は県庁屋上展望台で寒風を受けながら360度の展望を楽しみました。

 その後は自由解散となり、正倉院展を見学する人、ふれあい交流祭のテーマである聖武天皇について散策する人などいろいろでした。4班は「きたまち」の、般若寺・植村牧場・奈良少年刑務所跡・北山十八間戸などを訪れました。般若寺のコスモス、少年刑務所跡の美しい建物に魅了されました。

 

般若寺

今日は今までの人生の中で経験しなかった二つの新しい体験をしました。女子大と少年刑務所です。いい思い出になり、楽しくためになった現地探訪ツアーでした。


H29.10.23. 小野小町 & 摂津市出前講座(生活習慣病の予防)

2017年10月23日 | 日記

午前中は岩井敏明先生の「小野小町」(古今集)の講義です

①六歌仙

「古今和歌集」の紀貫之の仮名序による六歌仙の紹介(批評)

僧正遍昭:「歌の様は得たれどもまこと少なし」と厳しい見方をしている

在原業平:「その心余りて言葉たらず」

文屋康秀:「言葉はたくみにて そのさま身におはず」(言葉と歌のスタイルが一致しない)

僧喜撰:「言葉かすかにして 初め終はり確かならず」(残っている歌が少ない、なんで六歌仙に選ばれたのか)

小野小町:「いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて強からず」(歌のスタイルが美しい)

大友黒主:「そのさまいやし」(あまり高尚ではない)ちなみに小倉百人一首には選ばれていない

②小野小町の年代と出自

小野篁〈おののたかむら〉の孫娘説、小野良真の娘とも?

出自の諸説 参照:熊谷直春「小野小町の真実」

⑴采女説

⑵常寧殿(后町)に仕えた女房

⑶「厨町」で起居した女官

⑷仁明天皇の更衣、小野吉子またはその

⑸小野氏の氏

⑹外命婦〈げみょうぶ〉(五位以下の官人の妻)小野貞樹の妻?

③小野氏と和珥氏〈わにし〉

 小野氏は古代の豪族。和珥(わに)氏の同族。《古事記》の氏族系譜によれば孝昭天皇の皇子天押帯日子(あめのおしたらしひこ)命を始祖とする。天武朝の八色(やくさ)の姓で臣から朝臣となった。和珥氏同族の本拠である大和の添上郡(奈良市南東部)や,山城の愛宕郡小野郷(京都市左京区),宇治郡小野郷(京都市山科区)に勢力をもった。また近江の滋賀郡小野村(滋賀県志賀町)は氏の起こる所と伝え,氏神の小野神社があり,平安初期には同族の粟田氏,大春日氏,布瑠(ふる)氏も氏神として崇拝していた。

④小野氏の人々

小野小町のほかに歴史上に出てくる主な小野姓の人々

小野妹子・小野毛人(妹子の子)・小野篁 など

 


午後からは第3回ルーム講座でした。

摂津市保健福祉課 小林保健師による生活習慣病の予防についての講座です。

健診の目的は動脈硬化の予防であり、高血圧や糖尿病の予防のための食事・運動の方法などについて約1時間にわたり講習してくださいました。

三種の神器(腎臓・心臓・脳)は特に重要である旨説明し、「手ばかり栄養法」といったわかりやすい図で解説を受けました。

てきぱきとしたわかりやすい話ぶりで、面白くかつためになるルーム講座でした。


H29.10.16. 後半 平将門

2017年10月16日 | 日記

 

午前中に引き続き午後からも、斉藤恵美先生による「平将門」の講義です。

平将門

平将門について

・桓武平氏の一門で 鎮守府将軍良将(良持)の子

・生年不明 死没 天慶3年(940)2月14日   午前中に学んだ桓武天皇の5世子孫

・下総の所領問題で一族と争う 

・その後武蔵野国の紛争に介入、常陸国府を襲撃・占領する等関東諸国の国府占拠

・「新皇」を自称し東国の独立を謀ったとして国家への謀反とみなされた  

・この反乱は同時期に西国で起こった藤原純友の反乱と合わせて承平・天慶の乱という  

時代を経るに従い様々な逸話や伝承の材に採られ、小説による創作も加わり将門伝説が形成

時代背景

・小帝国日本の放棄; 国民(公民)国土(公地)による人民統制理念の放棄 

・軍縮;軍団兵士制の廃止 

・公地から土地所有へ;人でなく土地を単位として課税

・地方政治の変容;国司の受領化と富豪層の対立と依存

・「東国」という場所;対蝦夷戦争の兵士・兵糧、坂東八カ国から供給                   <坂東八カ国>相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)

将門の乱の経緯 

・内紛以前;父良将の死後故郷に帰るも、叔父たちと土地をめぐる遺産争い

・平氏一族の内紛段階;承平5年(935)から天慶2年(939)年にかけ叔父達と内紛

・国家へ謀反とみなされた段階;武蔵野国の国司と郡司の紛争に介入 

・将門死去;天慶3年(940)川口村の合戦にて矢にあたり死去、首は東市に晒された

将門の乱の原因                            

・郡司と国司の確執

・受領国司と任用国司の確執 

・私営田領主と国司の確執

後世への影響

・平安貴族のトラウマ;騒動や戦乱時にその大きさを推し量る基準となった

・武士のイエ(血族);平安中期以降の武士の条件は特定の血族に属することとなる

将門伝説の形成

冥界伝説 ❷調伏伝説 ❸祭祀伝説 ❹王城伝説 ❺首の伝説 ❻鉄身伝説 ❼七人将門伝説 ❽東西呼応の伝説 ❾将門一族の伝説 ❿追討者の伝説                     

 斉藤先生の平将門の寸評 時代が生んだちょっと早すぎた武将

 午前中に「桓武天皇」午後は「平将門」とどちらも重いテーマの授業を受講しました。再来週に「現地探訪ツアー」を予定しているため一部授業を繰り上げ実行したもので、これもまたいい経験となりました。

                                      


H29.10.16. 前半 桓武天皇

2017年10月16日 | 日記

午前中はオープンキャンパスが開かれ10数名の方が参加してくださいました。

授業は斉藤恵美先生の「桓武天皇」

先生はいつも以上に張り切って、スライド・年表・系図・地図を駆使し、休憩をはさんで2時間ぶっ通しで、講義をしてくださいました。

 

桓武天皇  奈良時代から平安時代へ

桓武天皇プロフィール

・天平9年(737)から延暦25年

・在位期間は天応元年(781)から延暦25年(806)の25年間<この時代の平均年齢は60歳くらい、在位期間は普通よりやや長い程度>

・実父光仁天皇譲位により即位

延暦3年(784)長岡京に遷都、延暦13年(794)平安京に遷都

桓武天皇という人物

「造作」と「軍事」によって千年の都京都の礎を作った天皇

・従来のしがらみから離れた新しい政治を模索

・社会の中で日本という国のあり方の模索

・怨霊の登場

生まれてから即位まで

・藤原氏と反藤原氏一族の攻防という奈良時代の政権史の中で実父光仁天皇が即位

・桓武天皇は母方の出自が低く(渡来系)皇位につくことは予測されなかった

・異母(井上内親王)異母弟(他戸親王)が巫蠱<ふこ>といった怨霊事件連座 

・そのため43歳という高齢で即位

新たな皇統意識

・即位の詔<みことのり>;即位の根拠を天智天皇の定めた法に置く

・天神郊祀;中国皇帝の郊祀祭に倣い始祖を光仁天皇とし天智系の新王朝を宣言

長岡京遷都:畿内諸国の私的な寺院の新設・建立・移転を禁止、 遷都の理由として交通網の変化、東国との関連性、奈良時代の政権構想からの離脱などがあげられる

平安京遷都:遷都の理由が見つからない。あえて挙げれば、洪水、怨霊問題、四神相応の土地であったことなどか?

遷都の目的

・大和から離れることで新しい国家の中心を形成

・政争に中立の立場に注目し渡来系の人物を重視

・対蝦夷戦争、曖昧領域としての蝦夷を公民化、関東以北支配を完成する

・怨霊におびえる天皇

斉藤先生による桓武天皇評  

・力強い天皇で、日本のあり方を考えていたがおびえている。                          ・後世にあまり悪口を言われない徳政をした天皇である。                                                   

           


H29.10.02. 土佐日記

2017年10月02日 | 日記

午前中は 若井敏明先生の紀貫之『土佐日記』の講義でした。

①『土佐日記』とは

 土佐から帰京する紀貫之の仮名の日記

②紀貫之  歌人としての活躍 

 ・延喜5年(905)『古今和歌集』の編纂に従事

  仮名序は紀貫之、真名序は紀淑望(きのよしもち)が書いたといわれる。

 ・延長8年(930)土佐赴任中に醍醐天皇の命を受け『新撰和歌』を編纂

③『土佐日記』冒頭

 男もすなる日記というものを、女もしてみむとて、するなり。

 ・当時仮名を使うのは女性であり、男性は真名(漢字)を使うのが一般的であった。

 ・紀貫之は国司としての任務が終わり、その帰り道での旅の日記である。

 <先生からの一言知識>・国司が任地に赴くことを受領(ずりょう)といい、赴かないで仕事をすることを遙任(ようにん)といった。

④阿倍仲麻呂への回顧  ・・参考 阿倍仲麻呂は本講座にて7月3日に受講済・・ 

 遣唐使として唐に渡った仲麻呂を思い、仲麻呂の作った歌について回顧している。

 あをうなばら(本当はあまのはら)ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも 

 唐と日本では言葉は違っているが、月の光は同じで違いないので、それを見て感じる人の心も同じであろう。

⑤海賊の恐怖

 連日のように海賊の恐怖について日記に書いている。この時代は瀬戸内海で海賊が横行、藤原純友の乱など事件も多発。

⑥住吉の神

 ちはやふる神のこころのあるる海に鏡を入れてかつ見つるかな

 舵取りから「住吉の神は海の神でありなにかお供えを」と言われ「目玉でさえ二つあるのにたった一つしかない鏡を供えるのは悔しい」といいつつお供えをした。

⑦淀川遡行

 長い日数をかけて淀川を遡行、淀川の上り(のぼり)であり結構大変な旅だったようだ。

 ちょうどわがクラスの受講場所である摂津市のことが記されている(例えば鳥飼の御牧)しかも、4班はその「摂津について」をふれあい交流祭のテーマにしているので興味深いものがある。

⑧帰京 山崎から牛車で京に向かう。

               参考 摂津市にある離宮鳥養院址