ONCC摂津教室 平成29年度第5期生 歴史と文学の”人と心”を学ぶ科

摂津市コミュニティセンターで、若井敏明先生、鈴木明子先生、斉藤恵美先生の先生方が交代で講義していただく教室です。

H29.07.24. 「鑑真」 & 朗読

2017年07月24日 | 日記

午前中は若井先生による鑑真の講義でした

①    中国における鑑真(688~763)『唐大和上東征伝』より*

*<この書物は井上靖の「天平の甍」のモデルになったもの> 

  諱(いみな)は鑑真、揚州出身、父親の勧めで寺に入り修行を重ね  た。

得度(出家せずにもらえる戎)その後に受戒(正式な僧になれる)

中国各地を巡遊し、三蔵<経・論・律>を修めたが特に律に優れていた。

②    戒師招請の事情と遣唐使

日本では仏教制度が確立しておらず、特に三師七証による受戒僧制度が必要となり

その教育のため戎師要請された。

日本からは遣唐使を派遣していたが派遣間隔が長く、なかなか渡来できなかった。

③    渡航要請と失敗

鑑真は自らの意思で渡航を望み度重なる試みをしたが5回は失敗に終わった。

1回目 出航前に失敗

2回目 遭難

3回目 出航せず

4回目 出航せず

5回目 遭難、海南島に漂着、失明

6回目 遣唐使の船に便乗し来日できた

④    来日後の活動と唐招提寺

1)天平勝宝6年(754)聖武天皇・光明皇后・皇太子(のちの孝謙天皇)授戒

のちに戒壇院を造成

2)唐招提寺の創立

3)唐招提寺の伽藍は金堂(本尊を納める堂)は延暦年間、講堂(修行の場)は

天平宝字4年760年)ころか、なお鑑真は763年享年76歳で逝去

⑤    鑑真がもたらしたもの

 天台の経典

 唐の仏教美術・唐招提寺の木彫仏像は平安時代の木彫仏のルーツか?

 鑑真の書状(目が見えたのかな? それとも 代筆)                


午後は、村上征夫先生による朗読のルーム講座でした。

 ・朗読とは<音声言語>で再表現する芸術

 ・声を出して読むことは寝そべっている言葉を起こすこと

 ・朗読は人格を反映する。文学は感動である。

 また、朗読での社会への参加活動(ボランティア活動)について、音訳・対面朗読・施設への訪問 などを行っているということをお話しされたあと、朗読を聞かせてくださいました。

 朗読の内容

・松山鏡(古典落語)鏡にまつわるお話と朗読

・蜘蛛の糸(小松左京)小松左京についての話と芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のパロディ版朗読

・中國四川省 黄龍・九塞溝旅行記 村上先生ご自身の旅行記をビデオを交えて朗読

・仇討三態その三(菊池寛)菊池寛と仇討ちについてのお話と朗読

 一時間以上、鮮やかな活舌でじっくり聞かせたり、楽しませたり、ご自分の体験をお話しされたり、 本当に充実したひと時を過ごすことができました。

 


H29.07.10 「行基」

2017年07月10日 | 日記

H29.07.10.午前中:

 授業前の質問に答える斉藤先生

斉藤恵美先生 が 行基『日本霊異記』を基にして講義が進められました。

まず、文学作品に描かれる人物についてどう受け止めるべきか ということについてかなり突っ込んだ言い方をされました。

完全に客観的な事実であるノンフィクションは成立しない、史実を基礎としていても史実として受け止めることは難しい。

 実在の人物の心 + 筆者の心 + 読者の心 

作品は、実在の人物の行動に対して筆者が共感できるかできないか によって記述される二重の構成、さらに、書物の読者が共感できるかできないかという三重の構成という重層的な構成によって成立している。

 また、読み手の自身がどう感じるかということは現代社会に生きる自分の問題で別の意味で重要である、と説明されました。

 三巻からなる景戒により著された「日本霊異記」の各巻の序文の解説をしたのちに、

行基についての①歴史的な理解、②「日本霊異記」収録の行基説話、③「日本霊異記」での行基像、④以後の展開 といった順序での講義が続きました。

 ②の説話については七話収録されている内容について説明されました。

「伝」としてではなく、「話」の中で登場する、説法説話ではなく歴史書を書くという作者の意思の現れであるとのことでした。

②の内容は以下の通り。

 1、上巻 第五「三宝を信敬したてまつりて現報を得し縁」

   2、中巻 第二「烏の邪淫を見て、世を厭ひ、善を修する縁」

 3、中巻 第七「智者の変化の聖人を誹り妬みて、現に閻羅の闕に至り、地獄の苦を受けし縁」

 4、中巻 第八「蟹蝦の命を贖ひて放生し、現報を得る縁」

 5、中巻第十二「蟹蝦の命を贖ひて放生し、現報を蟹に助けらるる縁」(4、とほぼ同じ内容)

 6、中巻第二十九「行基大徳、天眼を放ち、女人の頭に猪の油を塗れるを視て、呵嘖する縁」

 7、中巻第三十「行基大徳、子を携える女人の過去の怨を視て、淵に投げしめ、異しき表を示す縁」

③の「日本霊異記」での行基像は、「仏の教えを広め、迷える人たちを教え導いき、人柄は聡明で、生まれながらにして物事をよく知っていた」と極めて高評価である。著者景戒自身が尊敬していたという表れでもあろう。景戒は行基を「身分の上下なく信奉され、仏の理念を体現する理想の人物」としている。

④平安から近代まで様々なジャンルで理想の像とし行基が取り上げられてきた、時代の要求を吸収して行基像はどんどん肥大化した との解説でした。


H29.07.03.「阿倍仲麻呂」

2017年07月03日 | 日記

午前中:若井敏明先生 阿倍仲麻呂

①     仲麻呂望郷の歌(古今和歌集406)

  あまの原ふりさけみればかすがなるみかさの山にいでし月かも

 遣唐使として派遣され長年を経たのちに詠んだ望郷の歌。

   仲麻呂は第12次遣唐使の帰国(753年)の際に藤原清河とともに第一船に乗船したが遭難し安南(ベトナム)に漂着、ちなみに第2船には日本にたどり着いた鑑真が乗船していた。

②     御蓋山(みかさやま)の月

 仲麻呂は717年第9次遣唐使の一員として 吉備真備・玄昉などとともに同行、

真備らは733年の第10次遣唐使とともに帰国

③     仲麻呂の履歴

 『日本後紀』803年

  16歳で留学生として入唐、その後仕官し、玄宗皇帝のもと、出世を重ね官位を経て安南に漂着後も高官として正三位安南節度使の地位につき、死後、ろ(さんずいに路)州大都督の官位を賜った。

 彼の存在は唐でも認められ、王維・李太白などが彼のために歌を贈った。

④    仲麻呂の死

770年1月死亡(77歳)

770年3月『後日本紀』に「新羅からの遣いに対し仲麻呂らが書簡を託した」旨、記されている

779年5月『後日本紀』に仲麻呂在唐にて死すと記され

  家口偏亡 との記述あり この意味することにつき

一、中国にいる仲麻呂の一族が困窮している

二、日本に残っていた阿部一族が困窮している  と2面での見方がある

が、若井先生は「中国で功成り名を遂げた人の一家が困窮することは考えられない。数十年も不在にしていた日本で、その一族が困って(没落など)いると考えるのが妥当である」との見解であった。

⑤ 仲麻呂の同期生 井真成

  近年発掘された井真成の石棺の碑文には仕官したのちも苦労をしたといった趣旨の文章が刻まれているとのことである。

遣唐使にもいろいろな人生があると説明されました。


 

午後は班ごとに分かれ校外学習グループ、教室で夏休み・二学期・ふれあい交流祭について話しあうグルーブなど様々な活動をしました。