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ONCC摂津教室 平成29年度第5期生 歴史と文学の”人と心”を学ぶ科

摂津市コミュニティセンターで、若井敏明先生、鈴木明子先生、斉藤恵美先生の先生方が交代で講義していただく教室です。

H30.01.29. 建礼門院

2018年01月29日 | 日記

本日は若井先生の本年度最後の講義で『建礼門院』について学びました。

 

以下の項目①から⑨を前後しながら説明・講義をしていただきました。

①建礼門院とは:平徳子、平に清盛の三女、高倉天皇中宮、安徳天皇の母

②建春門院・平滋子:徳子のおば、後白河院の寵愛を受け第七皇子(憲仁)出産

③後白河院と二条天皇の対立:滋子の兄平時忠らによる憲仁立太子擁立陰謀発覚

 後白河院の政治介入停止、その後二条天皇死去により後白河院の政治活動再開

 2歳の六条天皇即位の際叔父である憲仁親王が立太子となる(のちの高倉天皇)

 滋子は皇太后、さらには建春門院の院号を宣下される

④平盛子の役割 平家と摂関家

 清盛の4女盛子は9歳で22歳の藤原(近衛)基実に嫁ぐ、義理の子基通が幼少

 7歳である事を理由に11歳であった盛子が実質的に摂関家の家長となり

 「白河殿」と称された

⑤徳子の入内:清盛の娘、徳子が高倉天皇元服ののち、入内さらには中宮に立后

⑥滋子の死去と鹿ケ谷の変:1176(安元7年)平滋子35歳で死去

 翌年後白河と平清盛の対立表面化(後白河の妻滋子が亡くなったことにより

 滋子の姉妹時子の夫であった清盛はしがらみが無くなり対立表面化)

⑦言仁親王の誕生と治承三年の政変:1178徳子皇太子出産、その子は立太子となり

 のちに、安徳天皇となった。1179(治承3年)白河殿盛子が24歳で死去、

 莫大な遺領は後白河院の管理下へ、同年清盛はクーデターを断行後白河法皇を

 鳥羽に幽閉、翌年高倉天皇は3歳の安徳天皇に譲位、高倉天皇は看板だけ、

 実権は平清盛が握ることとなった。

⑧内乱の開始:1180以仁王(もちひとおう)令旨発令、頼朝挙兵、福原遷都中止

 1181高倉上皇と平清盛死去、1183木曽義仲の入京と平家都落ち、1184一の谷

 の戦い 1184屋島・壇ノ浦の戦い 平家は滅亡

⑨建礼門院のその後:女院は出家、更には大原御行により寂光院にて余生を・・

 政略結婚で中宮・天皇の母となり苦労に苦労を重ねて余生を送った

            建礼門院徳子ゆかりの寂光院

 

 ?若井先生の思い入れ?

  平家には男性の生きざまもあるが女性もその奔流に流された。

  しかし、女性の果たした役割は大きかったのではないか。

  個人的には、盛子はあわれと思う。

 若井先生ありがとうございました。学習成果発表会のご指導もお願いいたします


 

午後からは地域交流会が開かれ、各地域に分かれてOBの方々が、同窓会への加入・

ランティア活動への参加などについて説明・勧誘が行われました。


H30.01.22. 紫式部

2018年01月22日 | 日記

鈴木明子先生の今年度最後の授業、テーマは『紫式部』です。

昨年11月27日に受講した『清少納言』と対比しながら講義をされました。

両者の生活ぶりや性格の違いなどがわかり興味がわく講義です。

紫式部

『源氏物語』の作者、973?-1014? 父藤原為時は高名な漢学者。

26歳で藤原宣孝と結婚、娘を生むが3年足らずで夫と死別。その後一条天皇の

后であった彰子に宮仕えして、源氏物語を書く。

(1)女房の世界<11月の講義をさらに詳しく>

   ①女房とは:(房)部屋を与えられ主に仕えた女性。

   ②仕事:日常生活への奉仕・話し相手・教育係・とりつぎ(最重要)

   ③給与:位に応じた公的給与・后や后の実家からの給与・下賜品・

    「得意ども」(パトロン)からの金品

   ④女房に対する世間の目:宮廷内に暮らし、奈良時代に比べると女房や女官

     として出仕することが恥であるという認識が生まれた

(2)紫式部 -生い立ちから宮仕えまで―

   ①生い立ち

   ・母と姉の死 父方に引き取られた(通常は母の実家が引き取った)

   ・親しくしていた「姉君」の死(亡くなった姉の代わりに思っていた)

   ・父は当代有数の漢学者であったが世渡り下手で浮世離れしていた

   ・幼いころから学者であった父親も認めるほど才能があった

   ②結婚

   ・父親と同じ年代の藤原宣孝と26歳ころ結婚、3年後に死別

   ・やがて気心の合う友人らと物語を書いて交換し、手紙で批評し合う 

   ③宮仕え

   ・33歳ころ出仕するも宮中になじめず、すぐに実家へ退出

   ・本心を明かさず「おっとり作戦」で反感を持たれないよう出仕再開

   ・やがて嫌がっていた宮中での勤めが嫌でなくなっていった

   ・親友-同僚小少将の君-と互いの境遇や心のうちまで語り合う仲に

   ・女房としての自信がつくにつれ同僚批判もするようになっていった

 

紫式部

 

(4)紫式部の才能

   ①漢学の才

   ・紫式部は博学で漢籍の知識豊富、当時の「物語」はマンガ的存在

   ・女性が学問することに対する風当り、同僚のひがみあり

   ・中宮彰子への漢籍進講--人目を避けて楽府(政治思想の漢詩)進講

   ②才女批判

    和泉式部に対し「口に任せて歌を詠むが和歌には精通していない」

    清少納言に対し「利口ぶって漢字を書き、いつも風流ぶっている」

(3)身分を超える心

   ①この身と心---夫の死により自分の心と深く向き合う日を送った

   ②中宮を見る目(出産後の中宮の様子)---同じ女性として中宮を見る

   ③若宮誕生と天皇行幸---高貴な人に混じっての宮仕えも、共通する心を

     持ちながら、絶対的に超えられない身分や男女の隔てに絶望

(5)物語と真実

   日本紀などの記す歴史は世間の一部に過ぎない「物語」にこそ真実がある

  ・源氏物語編纂作業---藤原道長は最高の条件で編纂作業を援助、学識の

   高い一条天皇をも熱心な読者として獲得

  ・「あなかしこ このわたりに わかむらさきやさぶらふ」

   当代一の能力と教養があった藤原公任すら源氏物語を読んでくれた

 


 

『紫式部日記』を中心に講義を進められました。エピソードやパワーポイント

による説明がわかりやすいものでした。

*先生からのアドバイス*

 せっかく平安時代の講座を受講したのですからこれからも続けてください。

 『源氏物語』を読んでいない人はまず『落窪物語』から読むといいでしょう

 平安時代のシンデレラ物語です。 

 『源氏物語』を読み終えた人には当時の貴族が詠んだ『宇津保物語』が

 おすすめです。

 鈴木先生、一年間ありがとうございました。


H30.01.15. 白河法皇 & 懇親会

2018年01月15日 | 日記

新年に入って初めての授業でした。今日はコンベンションホールの部屋で

の講義でしたが、若井先生の声が反響し少し聞きにくかったです。

先生も気を使われて休憩の時間に皆に声が聞き取れるか確認してくださいました。

白河法皇                  

①後三条天皇の即位

 後三条天皇と藤原氏:藤原氏の摂関政治の終息

 延久の荘園整理令:実態のある荘園整理の開始

 後三条天皇の上位・白河天皇の即位

  後三条天皇は4年で退位:退位の理由について

  体調不良・院政をしたいなど諸説あり 

②白河天皇の思惑:白河天皇は「中継ぎ」とされた

 自分の子供(堀河天皇)を後継者にし上皇として

 政務を執り甥にあたる実仁・輔仁両親王を排除

③白河院制

 摂政藤原師実との協調、堀河の成人と藤原師通

 子の堀河天皇死去、孫の鳥羽天皇即位により院政本格化

 後三条天皇の政策継承:中御門宗忠『中右記』に記載

 院政イメージ:北畠親房『神皇正統記』中御門宗忠『中右記』、『源平盛衰記』

  1、在位14年、退位後43年にわたり幼主3代 天下の政を執ること57年

  2、天下三不如意 :上皇のままならないもの

   (山法師・鴨川の水・双六の賽)<比叡山、自然界の猛威、サイコロの目>

  3、寺院権門間の争い(延暦寺 対 園城寺)など

 院政の性格:古代専制主義、恣意的な性格否定できず

④白河院政の「遺産」

 受領(ズリョウ)の功・・院のお気に入りが国司になる

 恣意的人事・・鳥羽天皇21歳を退位させ、崇徳天皇5歳を即位させた

 崇徳天皇出自の疑問・・崇徳天皇は鳥羽天皇と待賢門院璋子の子ではなく

            白河上皇と璋子の子ではないか?

⑤鳥羽上皇の政治と宮廷の抗争

 白河上皇死去のあと鳥羽院制の始まり、崇徳天皇の譲位と近衛天皇の即位

 結論 *白河天皇は院政という新しい政治体制を作り出した。

    *院政は親子祖父子ならよいが、叔父ではダメ

    *治天の君(上皇)が治め、天皇は治天のもとで「政」(マツリゴト)をした

    *中継ぎは嫌だという白河の個人的利害に始まった政治体制が成立した


 午後からは場所を茨木の『天狗』に移して、若井先生にもご出席していただき、

 和気あいあい、懇親会を開催しました。