ONCC摂津教室 平成29年度第5期生 歴史と文学の”人と心”を学ぶ科

摂津市コミュニティセンターで、若井敏明先生、鈴木明子先生、斉藤恵美先生の先生方が交代で講義していただく教室です。

H29.11.27. 清少納言『枕草子』 & DVD鑑賞

2017年11月27日 | 日記

 今日は半年ぶりに鈴木明子先生の講義でした。 

 パワーポイントを駆使して、{清少納言}を取り巻く人物像や、当時の風俗

(衣装)などの模様を画像・原文・その意味などを説明してくださり、

 ちょっとした豆知識も交えた、たいへんわかりやすい講義内容でした。

 『枕草子』の内容が現在でも十分に通じるものであることも説明され興味を

 持たせていただきました。

 清少納言

 『枕草子』の作者。生没年(966?-1025?)不明。実名不明。16歳ころ結婚、

 息子を生み、25.6歳で離婚。27歳ころ一条天皇の中宮定子のもとに宮仕えし、

 枕草子を書く。34歳ころ定子死亡に伴い宮仕えをやめた。再婚後、夫の赴任地に同行

 娘を生む。60歳ころ死亡か?

1)生い立ち

 ①歌人の家;曾祖父(清原深養父)・父(清原元輔)は著名な歌人

 ②父の人柄;83歳の長寿。『今昔物語』にひょうきんな一面が記されている。

 ③夫の人柄;世間の評判⇒武勇あり・見目好し、清少納言⇒和歌を嫌う武骨な男

(2)離婚と宮仕え(中宮定子の女房となる)

 ①清少納言の仕事観;生ひさきなく、まめやかに 

    一度は仕事をしてから結婚したほうが良い

 ②中宮定子;平安中期に政権を握り、関白となった藤原道隆を父に持つ。

    才色兼備の優れた女性。清少納言は敬愛の念を持って仕えていた。

 ③定子後宮の雰囲気;母親、本人とも漢文の才能を高く評価され、機知にとみ、

    華やかな雰囲気に包まれていた。   

 ④初出仕のころ;緊張しており、同室の女房から積極的になるよう指導された。

 ⑤才能を発揮;故事や漢詩などの内容をよく理解し、機知にとんだ対応をした。

 ⑥陽気な性格・・◎一番に思われたい 二番でダメ、一番になりたいという。

  ◎身分の高い人を称賛し、身分の低い人をさげすむ

(3)中関白家の没落;宮仕えから2、3年後に中関白家であった定子の実家が没落

   ・藤原道隆 病没 ・定子の兄弟 流刑 ・定子は妊娠中に出家

   ・母貴子 心痛のため病没 ・中宮御所 全焼(放火か?)

 ①里に引きこもる;清少納言は同僚からのけ者にされ耐えられなくなった

 ②枕草子の執筆;引き籠っていた時機に中宮から紙を贈られ「草子」などを

    作りふさいでいた心をまぎらわした。

 ③悲運のなかでも「をかし」;内裏への通勤路で、従者の声を聴きわけ誰の行列

    かを当てたりした。

 ④定子崩御の少し前;定子を見限って去っていく乳母がおり『枕草子』の中で

    はじめて『あわれ』という言葉を使った、

  清少納言は定子の死の時まで仕え続け、定子の死後、他所へ宮仕えしなかった

   鈴木先生の豆知識 本文中の下線部分の内容について

    *后妃の序列 (1)皇后 

             中宮(もとは太皇太后・皇太后・皇后の別称、中宮定子の

                時から皇后と等しい独立の地位に)

           (2)女御(にょうご)

           (3)更衣(こうい)

    *女房とは;・房(部屋)を与えられ主に使える女性

      ・日常生活への奉仕(入浴・整髪・着衣・食事の給仕など)

      むしろ・話し相手・教育係・特に取り次ぎ などが重要な仕事であった 

    *清少納言を分解すると 清・少納言 となり、清原家の少納言ということ

     ちなみに 紫式部は 紫・式部 ということになる。 本当は 藤・式部

     (藤原家出身)であるはずだが、『源氏物語』紫の上 が有名であり、紫式部

     と称されるようになったようだ。 ちなみに式部の方が少納言より官位は上位

  『枕草子』の特徴

   枕草子は定子に対する明るい賛美が基調(をかし・めでたし)

   宮仕え期の大半を占める悲運の時代についてはほとんど語らない。

   枕草子の明るさと現実との乖離をどう解釈するかが古くから議論の焦点

   となってきた。

 


 

 午後はCAが奈良県から借りてきた DVD鑑賞をしました。

 天智天皇と持統天皇・奈良まほろまん(行基など)約一時間、講義で学んだ人物

 中心であり、復習の意味も含めて有意義な内容でした。      

 


H29.11.15. ふれあい交流祭

2017年11月15日 | 日記

11月15日は第4回ふれあい交流祭でした。事前準備のため各教室から委員の方々が

何度も委員会を開いて努力してくださいました。

 わが摂津教室は 展示部会に班ごとにテーマを決めて出展をしました。

 テーマに沿ってはみんなでいろいろな場所に行って話を聞いたり、写真を撮ったり

した作品を完成させて交流祭に臨みました。

 摂津教室の紹介        摂津教室の展示

1班 小野小町          2班 鑑真

 3班 聖武天皇         4班 摂津を知ろう

 

 


H29.11.13. 伴善男と応天門の変

2017年11月13日 | 日記

 

若井敏明先生の「伴善男と応天門の変」の講義です。

①藤原義房 ②応天門の変 ③事件の説話化 ④伴大納言絵巻の順で講義あり。

①藤原義房

大伴氏の衰退に伴い藤原氏が台頭してきたことを家系図を用い説明されました。

伴善男の誕生以前に大伴家は衰退しつつあったが、それに追い打ちをかけて藤原氏が勢力を伸ばし、特に藤原義房の活躍が顕著であることを解説。

嵯峨上皇の崩御→道康親王即位(文徳天皇)→惟仁親王(のちの清和天皇)の生後八か月での立太子への擁立→九歳での即位→良房の万機摂行<事実上の摂政の初め> を時代を追って説明。

 ②応天門の変

清和天皇時代の朝廷

 太政大臣・藤原良房 左大臣・源信(ミナモトノマコト)右大臣・藤原良相<良房の弟>

伴善男の台頭

 参議から中納言、更には大納言へ昇格(大伴家では旅人以来)

 曾祖父(古麻呂)祖父(継人)父(国道)とも不遇をかこった。

 淳和天皇(大伴親王)の即位にともない大伴姓から伴姓に改名(されられた?)

応天門の変

・貞観8年(866年) 応天門の火災により棲鳳・翔鸞両楼を延焼

・伴善男、藤原良相と共謀し源信の失脚を図るが、藤原良房が介入し失敗。

 『大鏡』裏書<注:巻物の裏に、注釈・補遺などを書くこと>に事件の経緯などが

 記述されている

・事件の急展開

  最初大納言伴善男は左大臣源信の所業としてその処罰を主張したが,

  太政大臣藤原良房らの工作で無実が明らかになった。

  が、左京の備中権史生大宅鷹取が伴善男・中庸父子が真犯人であると告げた

  その結果、伴善男は伊豆に流罪、伴氏一族、さらに連座したとして紀氏一族

  などが流刑などの処分を受けた。

事件の結末

ⅰ 伴、紀氏の没落

ⅱ 源信、藤原良相の事実上の失脚

 藤原良房全権掌握 これに伴い養子(良房の長兄長良の実子)基経が信頼確保

 若井先生のコメント;藤原氏の摂関政治が軌道に乗り始める。

           この機会を利用し藤原氏は大伴氏・紀氏を排除することとした

           紀氏は政治の世界から歌の世界に活路を見出した。

③事件の説話化

 一連の事件経過は、『宇治拾遺物語』巻十「大納言焼応天門事」記述された

 若井先生のコメント;この物語は芥川龍之介の作品(羅生門・鼻など)のタネ本

④『伴大納言絵巻』

       応天門事件の模様を描いた「伴大納言絵巻」   インターネットより

  若井先生の結論;伴善男は強引な出世をしようとして墓穴を掘った。

          その後菅原道真が世に出てきた。


H29.11.06. 菅原道真 『大鏡』

2017年11月06日 | 日記

斉藤先生のパワーポイントに取り込んだ画像をみながらの 菅原道真 の講義です

菅原道真を以下の3つの角度からとらえて講義を進められました。

、歴史上の道真

Ⅱ、『大鏡』に描かれる道真

Ⅲ、天神として祀られる道真

 

Ⅰ、歴史上の道真 詩人で優秀官僚

 父祖の代より文章博士を務める文人貴族の生まれ、幼少から詩歌や作文において

稀有な才能を発揮。才能に加えたゆまぬ努力により学者・詩人として名声を極む。

桓武天皇の侍読であった曾祖父菅原古人の時代に土師氏から菅原に改名。

祖父清公、父親是善の後継者として菅原家の家業を継ぎ名声を得た。

 有能な政治家としても活躍し、宇多天皇の信任厚く右大臣にまで登り詰めた、が

醍醐天皇の治世に天皇の廃立を謀ったとして大宰府に左遷された(昌泰の変)

  文章経国思想のとらえ方

  通説:行政は文書による→故事・典籍を踏まえた流ちょうな漢文作成能力が必須

     紀伝道=中国の歴史書『史記』『漢書』+文章道=漢文学『文選』

  斉藤先生説:音声としての漢詩の役割(当時は黙読はなく声に出して文章を読んだ)

     時機をつかみ、時機にあった正しい政治を行う

     文章を書くことの意味(故事・典籍=普遍的な事象)は文飾ではない

大宰府左遷

◎左遷時代の道真への処置

・大宰府までの路次の国々による食事や馬の用意の禁止

・大宰府の行政に関与させず、任中の給与も従者も与えられなかった

◎大宰府での生活

・諦観と仏教(観音)信仰に明け暮れ病を得て延喜3年(903)数え59歳で死去

Ⅱ、『大鏡』に描かれる道真 

   平安時代後期成立とされる歴史物語。藤原道長の栄華を描く

藤原時平の道真に対する敵対心と道真の左遷 

・道真下向の途次、大宰府での詩歌のすばらしさ

・道真死後の霊威(北野天満宮創始・虫食い和歌説話)

・時平一族は道真の祟りによって短命であった

・雷神となった道真が清涼殿に雷を落とす

 1、道真は無実で左遷は時平の陰謀であるとの認識

 2、道真の霊は死後北野の宮に渡り天神になったとの認識

 3、清涼殿の落雷は雷神となった道真の仕業であるとの認識

 4、道真は優れた漢詩や和歌を詠う人物としての認識

 5、現在の北野社は霊験あらたかな神で天皇行幸もされるという認識

Ⅲ、天神として祀られる道真

二つの道真像

1、大宰府での道真信仰

大宰府安楽寺は道真喪葬の地、天拝山で無実を天道に訴えたところ「天満大自在

天神」になり、文道の神と認識され大宰府天満宮へ

2、都での道真信仰

時平の死去は道真と絡まず→道真左遷の宣命が破棄・焼却→右大臣に復し正二位

追贈→年号を延長に復元→清涼殿落雷を道真に関連付け→多治比あやこに託宣し

道真を天神として祀る→北野祭が官祭となり→正一位・左大臣、太政大臣追贈→

怨霊から国家の守護神へ→天神縁起説話、道真生前の伝説の作成など

 『大鏡』的道真認識が確立した。

その後の展開

 中世:天神縁起説話絵巻物の作成→天神道真礼賛

 室町期:漢詩文の担い手が貴族から禅僧へ(渡唐天神)、北野の連歌会開催

 江戸期:公家・武士・庶民へ広がった。藩校の神・寺子屋の守り神・手習いの神

     とあがめられ、天神宮参拝が盛んとなった

 近代:忠臣の鏡として楠木正成・和気清麻呂とともに取り上げられる

 現在:学問の神・諸芸の神・農業の神として12000社程度天神社がある