『五山・十刹の盛衰』アマゾン電子書籍紹介。
朝廷・幕府が定めた禅宗官寺の寺格。南宋(なんそう)の禅宗制度を移入したもので、朝廷や幕府が住持を任命する。
臨済宗の五山に「このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた。
五山、十刹(じっさつ)、諸山(しょざん)の3種の寺格がある。史料のうえで最初に五山に列せられたのは正安元年(1299))5月の鎌倉浄智寺で、そののち応長元年(1311)頃に鎌倉の建長寺、円覚寺、寿福寺が加えられた。
京都の禅寺は、さらに正慶2・元弘3(1333)10月に大徳が五山に列し、翌年正月南禅寺が五山第一に列せられた。
建武年中(1334~1338)には建仁寺、東福寺も五山に加えられた。
やがて室町幕府が成立して天龍寺が建てられると、各寺の位次が定められるようになった。
将軍足利尊氏は康永元(1342)4月、五山第一建長寺・南禅寺、第二円覚寺・天龍寺、第三寿福寺、第四建仁寺、第五東福寺、凖五山浄智寺と定めた。
延文3年(1358)9月、将軍義詮(よしあきら)は第一建長寺・南禅寺、第二円覚寺・天龍寺、第三寿福寺、第四建仁寺、第五東福寺・浄智寺・浄妙寺・万寿寺とした。
このうち建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺が鎌倉五山、ほかが京都五山である。
至徳3年(1386)7月には、将軍義満によって創立された相国寺を加えて、五山之上南禅寺、第一天龍寺・建長寺、第二相国寺・円覚寺、第三建仁寺・寿福寺、第四東福寺・浄智寺、第五万寿寺・浄妙寺という京都五山優位の位次が初めて決定された。のち一時期、義満は相国寺と天龍寺の位次を取り替えたが、やがて元に復した。
このように五山の順位は権力者が替われば順位が変わり、その後、京都では大徳寺と妙心寺では時の執権者の意に沿わなかったとか政治的に考慮して林下として加えることが無かった。
五山に次ぐ十刹には、浄妙寺や豊後(ぶんご)の万寿寺などが鎌倉末期に列せられたのが初見で、ついで暦応4年(1341)8月、尊氏によって相模(さがみ)浄妙寺・相模禅興(ぜんこう)寺、筑前聖福(しょうふく)寺、京都万寿寺、相模東勝寺・相模万寿寺、上野(こうずけ)長楽寺、京都真如(しんにょ)寺・京都安国(あんこく)寺、豊後万寿寺の10か寺が決められた。
そののち義詮、義満によって一部の改定が行われたが、康暦2年(1380)正月、義満によって第一等持(とうじ)寺(京都)、第二禅興寺、第三聖福寺、第四東勝寺、第五万寿寺(京都)、第六長楽寺、第七真如寺、第八安国寺(京都)、第九万寿寺(豊後)、第十清見(せいけん)寺(駿河(するが))の十刹と、臨川(りんせん)寺(京都)、宝幢(ほうどう)寺(京都)、瑞泉(ずいせん)寺(相模)、普門寺(京都)、宝林寺(播磨)、国清(こくしょう)寺(伊豆)の凖十刹、計16か寺の位次が決められ、ここに十刹は10か寺より多い一種の寺格に変わった。
ついで至徳3年(1386)7月に等持寺・臨川寺・真如寺・安国寺・宝幢寺・普門(ふもん)寺・広覚(こうかく)寺・妙光(みょうこう)寺・大徳寺・龍翔(りょうしょう)寺の京都十刹と、禅興寺・瑞泉寺・東勝寺・万寿寺・大慶(だいけい)寺・興聖(こうしょう)寺・東漸(とうぜん)寺・善福寺・法泉寺・長楽寺の関東十刹が決定されたが、こののち将軍義持の頃からしだいに数を増し、文明末年(1486)頃には46か寺、さらに中世末には60か寺余の多きに達した。十刹に次ぐ諸山は、元亨元(1321)に相模の金剛崇寿(こんごうすうじゅ)寺が列せられたのが初見で、そののち各国の有力禅寺がしだいに加えられて、江戸初期には全国で230か寺を数えるに至っている。
これら禅宗官寺の多くは将軍の御教書(みぎょうしょ)によって認定されたが、なかには北朝の院宣(いんぜん)や南朝の綸旨(りんじ)によるものもあった。
なお、禅宗官寺は原則として五山のどの派の者も住持になりうる十方(じっぽう)住持制をとっており、その住持期間も原則として三年二夏(満2年)と決められていた。五山、十刹、諸山に編成された禅宗寺院を五山派と総称し、林下(りんか)と区別する。