「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『太閤の夢の夢』アマゾン・オンデマンド・書籍1728円紹介 

2019-05-04 06:06:27 | 温故知新


『太閤の夢の夢』アマゾン書籍1728円紹介 
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。
 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。
 織田信長が西暦1534年六月生まれ、豊臣秀吉が西暦1537年三月生まれ、徳川家康が西暦1543年一月生まれで三傑の年齢差は三歳・六歳違いのほぼ同世代の英雄である。
農民の子として生まれ天下人になり立身出世した。
 天下統一を果たした織田信長の家臣として活躍後、信長の本能寺の横死後に後継者争いに勝利を収めた。 柴田勝家・徳川家康を押さえて関白に任官し、紀伊・四国・越中攻略など経て九州平定・小田原征伐を終えて盤石な天下統一を果たした。
 日本の天下統一を果たした天下人秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。秀吉は(明の)冊封国である李氏朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。
 秀吉の野望は日本の遥か周辺国に目が向けらえて、朝鮮出兵で多大な損失を受けた。あろうことか中国の明をを支配下に置く野望を持ったが、秀吉死去などうやむやの内に敗北を帰した。秀吉は後継者に恵まれず、甥の秀次に関白に譲るが、皮肉にもその後継子・秀頼の誕生に溺愛、老いの一徹、非情な秀次切腹事件で晩成を汚しつつ、慶長三年(1598)八月一八日に六二歳で没した。




『伊予・伊達騒動の怨霊」グーグル・楽天・角川・電子書籍紹

2019-05-03 06:34:22 | 温故知新


『伊予・伊達騒動の怨霊」アマゾン電子書籍紹介。
「伊予伊達騒動」は一般的に「和霊騒動」と呼ばれている。
元和六年六月二十九日(1620)に発生した宇和島藩のお家騒動のことである。山家清兵衛事件ともいう。
 宇和島藩
は、慶長十九年(1614)に伊達政宗の庶長子伊達秀宗が伊予に十万石を与えられて成立した藩である。政宗は秀宗に「五十七騎」と呼ばれる家臣を付け、重臣として藩を運営させた。その中で山家清兵衛公頼が筆頭家老として実質的に藩政を執った。元和五年(1619)には大坂城の石垣修復普請を請け負ったことから藩の運営を巡り、山家清兵衛と桜田玄蕃元親が対立を起こす。しかし、山家清兵衛が政宗から信任が厚かったことから秀宗は清兵衛を疎んじ、桜田玄蕃を重用し、清兵衛は謹慎する。実はその前にも、反清兵衛派は清兵衛暗殺を企てて、秀宗生母・龍泉院の七回忌の法要にて、当時法要の責任者だった清兵衛を茶坊主を使って毒殺しようとしたが、これは未遂に終わっている。 翌元和六年六月二十九日、雨天の深夜、山家邸が襲撃され、清兵衛と清兵衛の次男と三男、そして隣家の清兵衛の娘婿、塩谷内匠とその子二人が斬殺、当時九歳だった清兵衛の四男は、現・丸之内和霊神社社殿裏の井戸に投げ込まれて殺害されたが、清兵衛の母親と妻は無事だった。秀宗の命による「御成敗」により、桜田玄蕃一派が襲撃したと言われるが、玄蕃本人は襲撃当日は大阪城の石垣修復に従事していた。秀宗はこの事件を江戸幕府は疎か、政宗にも報告しなかった。慌てた秀宗は幕府や政宗に釈明の使者を出したり、妻の実家である彦根藩の井伊直孝に仲介を依頼した。彦根藩や仙台藩の仲介工作の結果、当時老中だった土井利勝は政宗の嘆願を上奏せず、宇和島藩は改易を免れたが、これにより宇和島伊達家は本家と気まずい仲になる。 事件後、寛永九年(1932)、秀宗正室・桂林院の三回忌法要の際、大風によって金剛山正眼院本堂の梁が落下し、桜田玄蕃が圧死。その後も山家清兵衛の政敵たちが海難事故や落雷によって相次いで死亡し、その後宇和島藩では不吉なことが連続して起き、山家斬殺の祟り呪いと恐れられた。


足利将軍家の変遷」グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介。

2019-05-02 05:29:32 | 温故知新


足利将軍家の変遷」アマゾン電子書籍紹介。 
悪名たかい足利尊氏と言えば、一四〇年の鎌倉幕府を倒して京都に室町幕府を樹立、室町幕府を樹立し260余り、尊氏から義詮、義満から義政までは北山文化を創出し、平穏と栄華を誇ったが、成立当初では、尊氏・直義の内紛が起こり、南北朝の動乱と相まって混乱をきたした。以降政権は鎌倉、京都の二元政治の中、管領や公方の制御すら効かす、足利政権は操り人形の如く翻弄されていった。その上幕府はその曖昧さ故、政権成立後の南北朝の混乱の主人公として日本中混乱を引き起こした人物である。南北動乱は後醍醐天皇は隠岐の島に流され正慶二年(1333)に名和長利らの一族らの協力によって隠岐の島より脱出に成功、伯耆船上山で挙兵から南北朝動乱と足利幕府の尊氏の物語が始まった。二代義詮、義満らの政権基礎時代を築きつつ義満の花の御所の黄金期を迎えた。四代将軍の義持の治世には京都五山と共に北山文化が形成されていった。六代将軍の義教の赤松氏に謀られてた暗殺され、幼く継いだ七代将軍義勝も不可思議な謎の死を遂げる。九代将軍義尚若くして一年半の近江陣中で病・離合集散の流浪の末、阿波で死去の将軍義稙、前将軍の巻き返しに近江で逃れて将軍義澄病死、和合・離反を繰り返した将軍義晴陣中で早世した。将軍義輝、敵対する三好一族に邸で惨殺され、三好一族の傀儡将軍義栄、波乱の将軍義昭は最期は安穏な人生と将軍家の万丈波乱の下剋上の前章時代であった。


『古事記が紡ぐ一ノ宮の神々』アマゾン書籍・1296円

2019-05-01 05:59:58 | 温故知新
『古事記が紡ぐ一ノ宮の神々』アマゾン書籍・1296円
『古事記』『日本書紀』 には神話の編纂に国津神、先住氏族の祖神の神々を多く記されている。
特に出雲系の地主神、国造りの神々は古くは諸国に分布する一ノ宮の祭神から国津神と天孫の天津神の中央のヤマト王朝との対立、紛争を推測することが出来る。
また古くより先住し、御神体が山々に磐座に鎮座する崇敬の信仰、氏族の祖神を祀る古代の豪族の神社など、地域に根付いた崇敬の神々が存在した。 
六十余諸国一国に一ノ宮に選ばれた神社の祭神は由緒、崇敬、権威、勢力などを兼ね備えた神社である。
本来なら天孫降臨の祭神が多くあっても良いものだが、多くは出雲系の国津神が大部分を占める。 
天孫天津神と対立し「国譲り」をしたとされる、国津神の神々の分布は、一つの流れは大和から尾張、三河、遠江、武蔵野への流れ、二つ目の流れは大和から能登、越中、越後へ、三つ目の流れは大和から丹波、出雲、への流れがあるようだ。
大和国一ノ宮は大神神社の祭神大物主神は大国主神と同一神とされる神で、天孫降臨の子々孫々は大和国から国津神を一掃できなかった。
大和を拠点の天孫も天武朝の少し前の五世紀から六世紀に伊勢に鎮座を見た。住氏族、部族、豪族の祖神、氏神が諸国多く見られ、潮流によって北上し漂着、土着し祖神を祀った。
地主神としてその地域の神として鎮座、君臨する神など居たと思われる。 
一早く天孫の軍神となった四道将軍も派遣され、その地で土着し氏族の祖神となる場合など元来の地主神と融和をした。
渡来系の神々に、日本人の起源を考えてきた場合、縄文時代後期から弥生時代にかけて七倍ほどの人口増と周辺諸国からの流入が考えられる。
先住氏族と征服氏族らの天津神系も多種多様に戦いと融和を重ねながら、包み込み生み出されていった「八百万の神々」なのである。
平安時代から鎌倉時代にかけ、形成されていった一ノ宮は諸国の神社に熾烈な争いを巻き起こし、神仏習合と相成って明治の神仏分離令まで変遷を繰り返した。
今尚残る全国の地名に一ノ宮は往時の一ノ宮への威信かけた軌跡である。