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立憲主義を守るための戦略本!議員だけでなく市民も必読!!

2016-05-12 | スズキのおススメ+コラム
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一億総選挙革命
座間宮ガレイ著
キラジェンヌ


「投票率が下がっても野党が勝っている選挙区はいくらでもある。…重要なのは、投票率の上下に関わらず、勝つ戦略を立てること」


「2014年の衆院選では、与党と野党の票は、ほとんど互角でしたが、結果は与党が3分の2以上の議席を確保しました。なぜこうなったか。野党が割れていたからです。自民の小選挙区の得票率は48%。共産と非共産リベラルの小選挙区の得票率は、約13%と約32%。合わせれば45%。…現状を回避したいならば、自民党の議席を減らすように「戦略的投票」をしなくてはいけないのです」


「通常の政治活動では信念通りに行動していれば良いかもしれませんが、選挙は信念通りに投票すれば良いとは限らないのです」


「野党共闘を進めようとする勝手連側の「色」も重要になる。もし本当にうまくいかせたいならば、野党5党(※現在は野党4党)との相性が良い勝手連のチームづくりが必要となるだろう。…特定の色が強くなり過ぎないように気を配って、勝手連を形成していくことは良い戦術だ」

 
「選挙で勝たなければ達成できない目標がある…つまり、「選挙で負けると、目標は絶対に達成できない」ということだ」



 いずれも座間宮氏の近著『一億総選挙革命』に出てくる言葉です。重要と思われるものをいくつか挙げてみました。

 この『一億総選挙革命』は、いわゆる選挙のハウツー本ではありません。この夏の参議院選挙あるいは衆参同日選挙に向けて、立憲主義を守るために、私たち議員や一般市民がどのような行動や選択をすべきか、いわば、選挙を勝ち抜くための戦略について、わかりやすい率直な言葉で書かれた本です。

 仕事柄、選挙に関する様々な本を読んできましたが、『一億総選挙革命』はこれまでにはないタイプの本ではないかと思います。特に、野党共闘の実現を目指している勝手連等の市民運動を応援しながらも、野党共闘は地域によってはすぐにできるものではないことやその理由、そして前述のように、野党4党と相性の良いチーム作りの必要性は、選挙の現場にいる人間からすれば皮膚感覚で感じていることですが、そうしたことを活字にしたものは正直初めて見ました。

 何もしないことは、結局、現状に甘んじることを意味します。今の状況には満足していないが何をすればいいのかわからない、そうした方には特にお読み頂きたい本です。

 また、議員や既に運動されている一般の方も、ハッとさせられる部分がきっとあると思いますので、併せて一読をおススメします。
 

 追伸 『一億総選挙革命』の内容や4月の北海道補欠選挙の分析等について、直接、座間宮氏から聞くことができる勉強会を、5月26日(木)午後5時30分から静岡市内で開催致します。是非ご参加下さい!※詳細やお申し込みはこちらをクリック→こくちーず『一億総選挙革命勉強会』

 
※5月26日の『一億総選挙革命勉強会』チラシ

 お読み下さり、ありがとうございます。

現実を理想に近づける:故坂本義和教授を偲ぶ

2014-10-14 | スズキのおススメ+コラム

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 今月の2日、国際政治学者の坂本義和・東大名誉教授がお亡くなりになりました

 私は最初の大学受験に失敗した後、ある本(伊藤憲一著『国家と戦略』)との出会いをきっかけに国際政治、特に平和を実現するための戦略について学びたいと考えるようになり、そこで受験したのが明治学院大学国際学部国際学科でした。入学時に創設4年目だった国際学部には、他の大学には殆どなかった「平和学」等の科目があり、そこで教鞭をとられていたのが、故坂本教授や故豊田利幸教授です。お二人は当時の日本における平和学を、それぞれの立場から先導していた方(坂本教授は国際政治学者、豊田教授は物理学者として)であり、受験する前から、是非ともお二人の先生の下で勉強したいと考えていました。


朝日新聞記事(平成26年10月7日 デジタル版


 著書を全て読んだ訳ではありませんが、坂本教授は、お題目的に平和主義を唱えるのではなく、理想を実現するには現実的にどのような戦略や政策が必要かということを常に考え提言された方であり、私が共鳴したのもそうした坂本教授の姿勢でした。私が当初、国連で働くことを目指していたのも、理論を言うばかりでなく行動で平和に貢献したいという想いからですし(実際には叶いませんでしたが)、今は地方議員として、少しでも現実を理想に近づけることを目指して現場で行動することを心掛けているつもりです。

 坂本教授は、私が学生の時は学部生に対してはゼミを持たれませんでしたので(それでも、幸いに、豊田教授のゼミ生となることができました)、坂本教授から細かく指導を受けることは残念ながらありませんでした。ただ、私は当時所属していた大学生協(明治学院消費生活協同組合)学生委員会の企画として、坂本教授と対談し大学生協の冊子にその内容を掲載するという担当に選ばれたお陰で、坂本教授から平和学や今の学生についてお話を伺う機会を得ることができました。

 その冊子「読書のいずみ」の中の対談記事と、その対談記事を取り上げた朝日新聞の天声人語(どちらも20年以上前のものです!)の画像を以下に掲載致します。お読み頂ければ幸いです。

   



※『読書のいずみ』43号(平成2年6月 全国大学生活協同組合連合会発行)22~29ページ 及び64ページ(編集後記)


※朝日新聞天声人語(平成2年7月4日)


 坂本教授と対談した平成2年当時は、国内は正にバブル景気の最中であり、国外では前年にベルリンの壁が崩壊し東西冷戦が終結するなど緊張緩和や軍縮が進んでいました。ですから坂本教授の言葉は、好景気に浮かれていた?当時の私達学生に対して大変厳しいものでした。今は状況は大きく異なりますが、国内志向が強くなっていると言われる現在の学生や若者の皆さんには特に傾聴して頂きたく思います。また、シリアやウクライナ等で紛争が勃発するなど世界各地で緊張関係が高まり、国内的にも安倍政権が国家主義的な色合いの強い政策を進めつつある今こそ、坂本教授が続けられた「現実を理想に近づける」作業を、一層強力に行なう必要があるのではないでしょうか。

 生前のご縁とご厚情に深く感謝を申し上げつつ、坂本教授のご冥福を心からお祈り致します。

 お読み下さり、ありがとうございます。
 

【つぶやき】 ちょっと変なバカを貫く

2014-06-16 | スズキのおススメ+コラム
 4年間の任期の終わりが近づくにつれ、これからどのように自分の考えを打ち出していくか、今まで以上に考えるようになっています。

 先週金曜日(13日)の、北川正恭・元三重県知事を講師にお招きしての会派勉強会。「議会改革」は(定数や報酬の削減を除けば)一般の方にはあまり関心がないテーマであり、また、議会の過半数を占める自民改革会議に反対されればそもそも実現しないもの。どのように打ち出すべきかと尋ねたところ、北川氏は「そんなこと言うのはヤル気のない証拠」と一喝。やや面食らったものの、確かにその通りで、改めて、自分の考えを根気強く(そしてわかりやすく)主張することの大切さを再認識。


※「マニフェスト」を広めた第一人者である、北川正恭・元三重県知事をお招きしての会派勉強会(平成26年6月13日)



 また本日(6月16日)は、毎月開催される民主党静岡県総支部連合会(静岡県連)の常任幹事会の日。細野豪志・県連会長からは「第三局と言われる他党が浮き足立っている今こそ、民主党は団結して地道に活動することが不可欠」等の話あり。党本部には明確・明快なメッセージを打ち出すことをお願いしたいものの、地方議員としては、やはり地道は活動を続けないといけません。


※静岡県連常任幹事会で挨拶する細野豪志・県連会長(平成26年6月16日)



 そんな中、6月27日の一般質問で採り上げる予定の北海道夕張市の鈴木直道・市長の記事が月刊誌に載っているということで購入。記事の終わりの方の「ちょっと変なバカが社会を活性化させる」「すべての人が想定の範囲で人生を生きたら、社会は確実に縮小していく」という言葉に遭遇し、思わず納得。


※鈴木直道・夕張市長のインタビュー記事(SAPIO 2014年7月号 ※一部)



 実は、昨日の日曜日(6月15日)、ある団体で県政報告の機会を頂き、先日の県政報告と同様に「人口減少問題」を中心に話をしました。まず最初に、どのくらいの人口が「望ましい、現実的な人口」か、皆さんに尋ねて手を挙げてもらったところ(選択肢は「2億人(人口増加)」「1億2700万人(人口維持)」「1億人(少し人口減少)」「8千万人(かなり人口減少)」の4つ)、殆どの方は「1億2700万人」に手を挙げました。

 その後、私は、実は最も「現実的な(そして「望ましい」可能性が大きい)」のは「8千万人」で、「8千万人」の人口になっても、明るい人口減少・高齢化社会は実現できる(だから実現目指して前向きに行動しましょう)」という話をデータを示しながらしたのですが、会が終わり、会場を後にしようとしたところ、ある方から「人口は減ってはいけないものだとずっと思っていた。話を聞けて良かった」という言葉を頂きました。私のメッセージは(少なくとも一部の方には)しっかり届いていました。

 「人口は減少しても明るい社会は創れる!」という主張は、まだまだ多くの方にとっては「バカな」考えかもしれませんが、財政再生団体である夕張市で頑張っている鈴木直道市長(苗字は同じですが、私よりもずっと若い33歳の市長です!)のように、堂々と「ちょっと変なバカ」を貫いていこうと思います!

 お読み下さり、ありがとうございます。
 

おススメ本:改めて、じっくり、憲法について考えましょう!

2013-06-20 | スズキのおススメ+コラム
赤ペンチェック 自民党憲法改正草案
クリエーター情報なし
大月書店


 最近参加する会合等で憲法についてお話しする際、おススメしているのがこの「赤ペンチェック 自民党憲法改正草案」です。著者である伊藤真氏は、弁護士や国家公務員等を目指して勉強している方々の間では大変著名な方で、「伊藤塾」という資格学校を全国各地で経営したり、数多くの参考書等を出されたりしています(※ちなみに、私も一時期、外交官を目指そうとしたことがありましたが、受験科目の多さに挫折しました。そのため「伊藤塾」にお世話になることはありませんでした)。

 ですから、書店で手にとって見れば分かりますが、「赤ペンチェック」というタイトル通りに、参考書のような「Q&A」形式の構成になっていますし、全部で111ページと、決して分厚くない(しかも2色刷り!)、大変読みやすい本となっています。内容も、単に自民党憲法改正草案の解説や問題点の指摘だけでなく、全体を読めば「憲法とは何か」理解できるように書かれていますので、改めて憲法について考えてみる点からもおススメです。是非、読んでみて下さい。

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スーチー氏来日記念連載⑥「ビルマと日本の関わり」

2013-04-16 | スズキのおススメ+コラム

 これまで、ビルマと日本の歴史的な関わりについて明らかにするために、特に、アウン・サンと鈴木敬司・南機関の動きを中心に、ビルマが独立を達成するまでの流れについて説明を試みた。あくまでも、ビルマ独立の歴史に日本が深く関わっていることを伝えることが主旨であり、その是非について問うものではない。

 だが、アウン・サンらは、日本政府や日本軍の対応に不満を抱き、結果的に反乱を起こしていることからしても、こうした日本の関わりはビルマにとって負の面が大きいのは否定できない事実であろう。スー・チーもアウン・サンの伝記の中で「日本による占領の物語は、幻滅と疑惑と苦痛の物語である…多くの人々は日本の兵士を解放者として歓迎していたが、その正体は、評判の悪かったイギリス人以上に悪質な圧政者だった」と述べている。

 しかし、そんな中でも、少なくともアウン・サンら30人の志士にとって、鈴木敬司を始めとする南機関の日本人隊員がとった態度や行動については、評価できる部分も少なくないと言っても間違いないようである。結果として、鈴木敬司がアウン・サンらに約束した独立は果たされなかったが、鈴木敬司らは、軍上層部に何度も直談判し、時には命令に素直に従わずに、独立を実現しようとしたのである。

 こうした、与えられた任務や命令の枠を超えた行動に鈴木敬司らを駆り立てたものは一体何か。今となっては関係資料から推測する他ないが、最も重要なのは、鈴木敬司らが目の当たりにした、アウン・サンらの独立に対する強靭な意志と行動力だったのでないか。もちろん、特に鈴木敬司にとっては、最初に独立の支援を約束してしまった以上、面目にかけても実現しなければならないという思いはあっただろう。しかし、そうした体裁を気にしての行動だけであれば、次第に不満が募っていった「30人の志士」らを従わせることは出来なかったのではないか。極秘の南機関の隊員として海南島での過酷な訓練等を共に行ううちに、言葉や文化、指導教官と訓練生という違いを乗り越えた、互いを同志として認めあう感情を共有するに至ったと言っても過言ではないのではないか。

 実際、志士の一人であったボ・ミンガウンによれば、日本軍に対するBIAの不穏の動きについて問い質した鈴木敬司に対し、アウン・サンは、鈴木敬司がビルマにいる限り絶対に日本軍に反乱は起こさないと誓ったという。また、日本軍への武装蜂起を開始するにあたり、アウン・サンは元南機関員の救命を各部隊に指示し、そのお陰で、ビルマに唯一残っていた元南機関員の高橋八郎中尉は身柄を保護され、戦後、日本に無事帰還している。更には、日本軍への反乱に際し、志士の一人のミン・オンは、日本人への義に反するとして自決したと言われている。

 こうした南機関とビルマの関わりは、アウン・サンの死で終わったわけではない。アウン・サンと共に闘った30人の志士の一人で、ウー・ヌ政権下の49年1月に軍の最高司令官に就任したネ・ウィンは、62年3月にクーデターを起こし、それから26年後の88年7月に民主化要求デモを受けて辞任するまで政権を握り続けた。そのネ・ウィンの辞任から約1か月後の8月、大集会で演説を行い、反政府運動のデビューを果たしたのがアウン・サンの娘のスー・チーだったというのは、歴史的な巡り合わせという他ないだろう。

 そのデビューから2年ほど遡った86年4月。前述のように、当時、京都大学の研究員だったスー・チーは、浜名湖畔の旅館「小松屋」を訪れた。もちろん、父アウン・サンの足跡を辿るためである。その「小松屋」は既に無いが、同じくスー・チーが訪れた「ビルマゆかりの碑」(74年5月建立)は、今もなお、浜名湖畔の大草山で、アウン・サンと鈴木敬司が共に行動したことを記し続けている。

 
※大草山から浜名湖を望む石碑(2012年1月撮影)


 地理的には必ずしも日本と近くはないビルマ/ミャンマー。しかし、歴史的には、様々な意味で日本はビルマと深い関わりがあり、今のミャンマーについて考える際、そのことを常に念頭に入れておくことが不可欠だろう。
(完)※敬称略


※この原稿は、私が榛葉賀津也・参議院議員の政策秘書時代(2009年3月)に書いたものです。


※スー・チー氏来日を報じる記事。鈴木敬司氏のご子息である鈴木邦幹氏の言葉も載っています(2013年4月14日静岡新聞)。


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スーチー氏来日記念連載⑤「独立達成とアウン・サンの死」

2013-04-15 | スズキのおススメ+コラム

 南機関の消滅からおよそ1年後の43年8月1日、日本による軍政が廃止され、ビルマの「独立」が宣言された。バー・モウが国家代表兼首相に就任し、アウン・サンは国防大臣となった。BDAはビルマ国軍(BNA)と改名され、その司令官にはアウン・サンが大臣との兼職で任命された。しかし、この「独立」は、アウン・サンらが望んでいたものとは程遠かった。例えば、議会は存在せず、権限はバー・モウに集中していたので、日本側はバー・モウを通してビルマ政府を操ることができた。また、日本軍はビルマ国内での自由な軍事活動を認められ、BNAは引き続き日本軍の指揮下に置かれるなど、占領状態の実質的な継続だった。

 そのため、アウン・サンらは既に坑日運動の準備を水面下で開始していた。「独立」に先立つ43年3月、バー・モウやアウン・サンらは日本に招かれ、東条首相らと会談するなどしているが、スー・チーによれば、その訪日から帰国した際、アウン・サンは数人の軍幹部と共に、抗日運動の時期について討議したという。また、既に戦局が日本にとって不利になってきたこともあり、アウン・サンは、「敵の敵」であるインド駐留のイギリス軍との接触も試みた。

 44年3月から7月にかけて行われたインド北東部の都市インパールに対する日本軍の作戦の失敗は、日本軍の弱体化を決定づけると共に、敗戦濃厚な日本と心中しないためにも抗日運動を急がなければならないことをアウン・サンらに認識させた。そのため、44年8月、アウン・サンらBNA幹部はビルマ共産党や人民革命党の幹部らと秘密裏に統一の抗日組織(後の「反ファシスト人民自由連盟」(AFPFL))を結成し、反日武装蜂起の準備を進めた。

 イギリス軍がビルマ中部にまで迫りつつあった45年3月上旬には、アウン・サンらは武装蜂起の実行を決定。参加するBNAの部隊を前線へ移動させるために、アウン・サンは「日本軍支援のため」という理由で日本のビルマ方面軍司令部を納得させ、同3月17日、前線へ出動するための出陣式をラングーン市内で盛大に行った。その10日後の3月27日、BNAは日本軍に対して一斉に武装蜂起。イギリス軍とBNAの挟み撃ちを受けることとなった日本軍は、4月末にはラングーンを放棄。そして、8月15日の日本のポツダム宣言受諾と9月12日の降伏文書調印により、日本軍のビルマ占領は終結したのだった。

 しかし、アウン・サンらは独立闘争を止めるわけにはいかなかった。ビルマを再占領したイギリスは、戦前のように植民地統治を開始。イギリス政府は、いずれは自治領に移行することを約束したが、その時期は示さなかった。そのため、アウン・サンは、軍人ではなくAFPFL議長として、真の独立の達成を目指してイギリス政府と交渉にあたった。

 イギリス側にしてみれば、対日戦の終盤ではイギリス軍側についたとはいえ、もともと日本軍や南機関と組んでビルマからイギリス軍を追いやったのがアウン・サンやBIAであり、アウン・サンをビルマ側の交渉相手とすべきかどうかについてはイギリス政府内でも意見が分かれていた。しかし、アウン・サンやAFPFLのビルマにおける人気の高さに加え、アウン・サン個人の誠実な人柄もあって、イギリス側は、アウン・サンを中心とするビルマ側代表団と直接交渉に入ることを決定。アウン・サンらは47年1月にロンドンに飛び、イギリスのアトリー首相らと15日間にわたる話し合いの結果、「アウン・サン=アトリー協定」を結んだ。これはビルマの完全独立を直接保証したものではかなったが、協定により同年4月に行われることとなった制憲議会選挙でAFPFLが勝利すれば、必然的に完全独立へ向けた憲法草案が作られることになるとアウン・サンらは考え、調印したのだった。そして予定通り行われた選挙でAFPFLは圧勝。翌5月には憲法草案作りが開始され、「独立ビルマ」の在り方を示した新憲法は、同年7月24日に制憲議会で承認・採択されたのである。

 しかし、念願の新憲法採択の場にアウン・サンはいなかった。あと5日で憲法が採択されるという47年7月19日、アウン・サンは、イギリス人総督の下で実施的な内閣として機能していた行政参事会の会議に出席中、乱入してきた4人の男により、6名の参事と共に射殺されてしまったからだ。わずか32歳での死だった。

 その後の調査により、4人の男は、アウン・サンの政敵であったウー・ソオにより送り込まれたことが判明した。ウー・ソオは、直轄植民地ビルマで首相(40年9月~42年1月)を務めたり、「アウン・サン=アトリー協定」を結んだ代表団にも一員として参加したりするなど、有力な政治家の一人であった。しかし、自分より15歳も年下であるアウン・サンの活躍に不満を持っていたと言われている。ウー・ソオは裁判の後に処刑され、一方、アウン・サンの後任には、AFPFL副議長のウー・ヌが就き、独立に向けた最終交渉をイギリスと行った。こうして、翌48年1月4日、ビルマは念願の独立を成し遂げたのである。
(続く)※敬称略

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スーチー氏来日記念連載④「志士の失望と南機関の消滅」

2013-04-14 | スズキのおススメ+コラム

 年が明けると、第15軍は泰緬国境を越えビルマへの本格的な侵攻を開始した。BIAの部隊も第15軍と前後してビルマへ進撃。進軍する先々で住民の歓迎を受けただけでなく入隊希望者も続出した。そのため、戦闘で数を減らすどころか、むしろ日に日に兵を増やしながらBIAの主力部隊はラングーンを目指して進撃を続けた。しかし、テナセリウム地方の主要都市であるモールメンにBIAが到達したにもかかわらず、第15軍は臨時政府の樹立どころかその他の政治活動すら許さなかった。当然ながら、志士や他のビルマ兵側は日本に対して失望や不信の感情を抱くようになった。

 鈴木敬司らは、そうしたビルマ兵をなだめながらラングーンまでの進撃を続けさせる。そして42年3月9日にはラングーンが陥落、6月上旬にはビルマ北部も占領し、ビルマのほぼ全土を手中に収めた。鈴木敬司はラングーンに入城後もビルマの即時独立を認めるよう第15軍司令部に求めたが、第15軍はビルマの独立を認めず、6月4日にはビルマ全土に軍政を布告した。それから約2か月後の8月1日、イギリス軍の撤退により刑務所から出ることができたバー・モウを長官とするビルマ中央行政府を発足させた。しかし、それはあくまでも第15軍の命令の範囲内で行政事務を担当したに過ぎなかった。

 南機関の目的だった「ビルマルートの遮断」が達成されたにもかかわらず、何故、ビルマの独立は認められなかったのか。大きな理由は、南機関の目的や鈴木敬司らの意志が明確だったのに対し、その上部組織である第15軍、更に上部の南方軍そして参謀本部や大本営のビルマに関する方針や計画は、米英との戦争に突入する時点においても漠然としたものだった。しかし、緒戦における東南アジア地域での日本の快進撃を受けて、ビルマにおける作戦も間接的なものから直接的・積極的なものへと具体化されていったために、鈴木敬司や南機関、特に30人の志士の思いや計画を覆すものになっていったことが挙げられる。言い換えれば、とりわけ、鈴木敬司の独断専行的な指導のためとも言え、それは、前述したように、鈴木敬司が、タキン党幹部らに独立支援を約束し、アウン・サンらを日本に偽装入国させたころから既に始まっていた。また、米英との戦争開始により大幅な計画変更を余儀なくされた際にも、テナセリウム地方占領時の臨時政府樹立やラングーン占領時の独立宣言という工作計画について、事態が急展開したこともあり、第15軍や南方軍の十分な理解や承認を得ないままに、BIAはビルマ領内への進撃を開始したのだった。

 こうして、独立宣言が無いままに完了した日本軍によるビルマの占領は、志士を始めとするビルマの人たちに大きな失望をもたらすと共に、南機関の任務の完了も意味することとなった。鈴木敬司は、軍政布告後間もなく内地部隊への異動を命ぜられ、42年7月には、BIAの総指揮をアウン・サンに移譲し、ビルマを離れた。同7月末には、BIAは、その一部の選抜された兵士により構成されるBDA(ビルマ防衛軍)に改編され、その司令官には引き続き、アウン・サンが就任した。南機関の日本人士官達も新たな任務を受け、南機関は、正式な発足からおよそ1年5カ月の活動をもって名実共に消滅したのである。
(続く)※敬称略

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スーチー氏来日記念連載③「南機関の発足」

2013-04-13 | スズキのおススメ+コラム

 しかし、独立運動への援助の約束は越権行為だったことから、アウン・サンらの来日は、参謀本部としては必ずしも歓迎できなかった。そのため、機密費も使えず、アウン・サンらの滞在場所やその費用は鈴木敬司が自ら確保しなければならなかった。また、秘密工作であるため、人目や噂を避けるように、アウン・サンらは鈴木敬司の東京の宿舎だけでなく、浜松の実家や浜松湖畔の旅館「小松屋」等を転々とする他なかった。その一方で、鈴木敬司は、アウン・サンらのビルマ独立運動における指導的立場や、日本が独立運動を支援することの重要性等を軍幹部に説明し続け、翌1941年2月1日、大本営直属の特務機関として「南機関」を正式に発足させることに成功した。

 「南機関」の名は、機関長に就いた鈴木敬司の偽名である「南益代」から付けられたものであり、その正体を隠すべく、対外的には「南方企業調査会」と名乗った。南機関の目的はビルマルート遮断のためのビルマ独立援助におかれ、具体的な方法は、独立運動の中核となるべき青年をビルマから脱出させ、軍事訓練を実施した後、武器や資金等と共にビルマに潜入させ、各所にて独立運動・武装蜂起を組織・展開させることにより、イギリスからの独立と新日政権の誕生を目指すというものだった。その作戦第一号として、日本人船員に扮した「面田紋二」ことアウン・サンらをビルマに潜入させ、4名のビルマ青年の脱出に成功した。こうした作戦を繰り返した結果、南機関所属のビルマ青年は10代後半から30代前半までの計30名(アウン・サン、ラ・ミャインを含む)に達した。今なお伝説的に語られる「30人の志士」の誕生である。彼らは、日本が占領していた中国・海南島の秘密基地に送り込まれ、南機関の日本人教官による集中的な軍事訓練を受けながら、ビルマへの潜入の時を待った。訓練では、実際に武装蜂起を行った際に日本の関与が発覚しないよう、中国戦線で捕獲された多国籍の外国製兵器を使用するなど、細心の注意が払われた。

 鈴木敬司らが当初目標として考えていたのは、1941年の6月頃を目途にビルマでの武装蜂起を実行させるというものだった。しかし、国際情勢の変化により、参謀本部はそうした計画の中止・変更を南機関に求めたために、鈴木敬司ら日本人の機関員のみならず、「30人の志士」の不満をも高めた。6月22日に独ソ戦が勃発。7月には日本が南部仏印に軍を進駐させるなど、資源確保のために東南アジアを攻撃するべきという南進論の高まりと共に、米英との開戦は不可避という状況に陥りつつあったのである。それでも、大本営や参謀本部の対ビルマ作戦に関する考え方は漠然としたものであったが、こうした情勢の変化は、ビルマ国内の独立運動を支援しビルマルートを遮断するという間接的な作戦の必要性を低下させる一方、日本軍が直接英領ビルマを攻撃・占領するという軍事作戦への転換を次第に促すようになった。

 41年12月8日の米英に対する開戦は、南機関の全面的な作戦変更を決定付けた。また開戦後まもなく南機関は第15軍の指揮下に組み込まれたために、第15軍との作戦の調整も必要となった。鈴木敬司は、「30人の志士」たちの不満を抑えるためにも、彼らを中核にビルマ独立義勇軍(BIA)を結成、第15軍とともにビルマに進攻することを提案し認めさせた。そして、12月11日に日泰攻守同盟条約が仮調印された直後にバンコクに入った鈴木敬司らは、当地で、タイに逃れていたビルマ人らに対し募兵を行い、同月28日には、日本人の南機関員も加わった約300名のBIA結成宣誓式を行った。BIAは独自の階級制度を定め、また鈴木敬司はビルマ名「ボウ・モウ・ジョウ(「雷将軍」の意)」大将としてBIAの司令官に就任した。アウン・サンはビルマ兵の中では最も階級が高い「面田少将」として、BIAでは三番目の地位の高級参謀に就いた。そして、鈴木敬司は、BIAの兵士らに、ビルマ南部のテナセリウム地方を占領すればその地に臨時政府を樹立すること、BIAの勢力範囲に入った地域では南機関が軍政をおこなうこと、ラングーンを占領すれば独立政権を樹立すること等を今後の工作計画として示した。そのため、ビルマ進攻直前のBIA兵士の士気は相当高まっていたようである。
(続く)※敬称略

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スーチー氏来日記念連載②「鈴木敬司との出会い」

2013-04-12 | スズキのおススメ+コラム

 以後、アウン・サンらと共に、ビルマの独立を目指して行動することとなる鈴木敬司は、1897年2月6日、現在の静岡県浜松市南区恩地町生まれ。アウン・サンは1915年2月13日生まれであるから、ちょうど18歳年上である。鈴木敬司は、ビルマでの工作活動に関わる以前にも、民間人に扮してフィリピンに潜入、軍事作戦用地図の作成に必要な情報を収集するという特殊任務に従事していた。また、日中戦争勃発時当初、上海での戦いにおける膠着状態から抜け出すために、実施困難と考えられていた杭州湾上陸作戦を計画・指導し成功させるなど、諜報活動や作戦立案に長けた人物だったようである。

 日本は、1937年7月の盧溝橋事件を発端として中国国民党・蒋介石政権と戦争状態に突入。前述の杭州湾上陸作戦の成功等もあり、同年11月に上海、翌12月には、早くも、その直前まで国民党政府の首都であった南京を占領した。しかし、戦線が拡大し、南京から重慶に首都を移した蒋介石政権が米英ソ等からの軍事援助を受けながら徹底抗戦を続けたために、日中戦争は次第に泥沼化する。そのため、日本軍は、蒋介石政権に対する援助物資の輸送路(援蒋ルート)を断ち切ることで、局面の打開を図ろうとした。その援蒋ルートの一つが、ラングーン(現ヤンゴン)港で陸揚げした物資を鉄道でビルマ北東部のラシオまで運び、そこからトラックで中国との国境を越え、雲南省昆明まで運ぶという「ビルマルート」であり、ビルマルート遮断のための方策を探る任務を参謀本部より受けたのが鈴木敬司だった。

 まだ米英とは戦争状態にないこともあり、38年10月に香港とその周辺を占領することで援蒋ルートの一つであった香港ルート(香港と中国内陸部を結ぶ輸送路)を遮断したのと同様に、英領ビルマを攻撃し占領するという選択肢は、当時は有り得なかった。また、40年6月にフランスがドイツに降伏した後もイギリスはドイツとの戦いを続けていたことから、仏領インドシナ北部に軍を進駐させ(40年9月)、同じく援蒋ルートの一つであった仏印ルート(現ベトナム北部のハイフォンと昆明を結ぶ輸送路)を遮断したのと同様の手段をとることもできなかった。そこで鈴木敬司が注目したのが、激しさを増すビルマ国内の反英・民族運動である。つまり、民族運動が武装蜂起そしてイギリスからの独立にまで発展すれば、ビルマルートを遮断できると考えたのである。しかしながら、当時の日本は、ビルマに関してわずかな情報や知識しか持っていなかったために、参謀本部は、鈴木敬司を「新聞記者・南益世」としてビルマに潜入させ、情報収集にあたらせたのであった。

 40年6月にビルマに入国した鈴木敬司は、ラングーンを拠点に活動する中で、民族運動の中心にあったタキン党の幹部らと接触する。そして、その中でも、外国からの軍事支援を模索していたタキン党のリアリストのグループを支援すべきと確信し、彼らを説得するために、日本が武器の提供や軍事訓練等の独立支援を行うことを約束した。こうした密約を結ぶ権限は鈴木敬司には与えられていなかったが、欧州では同年5月にはドイツ軍の攻勢にイギリス軍がフランス・ダンケルクから撤退し、翌月にはフランスがドイツに対して降伏するなど情勢が緊迫してきており、機を逸してはならないという思い等があったのだろう。支援を約束されたリアリストグループの幹部は、既にアモイに渡っていた同志のアウン・サンとラ・ミャインの写真を鈴木敬司に渡し、二人への協力を要請。その結果、鈴木敬司とアウン・サンは、同年11月に東京で出会うことになったのである。
(続く)※敬称略

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スーチー氏来日記念連載「ビルマの独立と日本の関わり」①「独立の父 アウン・サン」

2013-04-11 | スズキのおススメ+コラム

 ミャンマーにおける反政府運動の象徴的存在として有名なアウン・サン・スー・チーと日本との繋がりは、意外に知られていないのではないだろうか。スー・チーは、インド大使に任命された母・キンチーと共にデリーに居住し、デリー大学で学んだ。その後、英国のオックスフォード大学やロンドン大学に留学し、オックスフォード大学での後輩にあたる英国人のマイケル・アリスと結婚している。インド、ミャンマーとも英国の旧植民地であり、こうした経歴を見れば、英国と非常に関係が深いことがわかるスー・チー氏だが、実は、1985年から86年にかけて、京都大学東南アジア研究センターに研究員として在籍している。その目的は、日本との関係を無くしては語ることができない父、アウン・サンの調査・研究のためであった。

 「ビルマ独立の父」として今もミャンマー国民に尊敬されているアウン・サンが民族運動に直接関わるようになったのは、当時、学生運動が盛んだったラングーン大学(現ヤンゴン大学)に入学してから3年程たった1935年以降のようである。アウン・サンが大学の自治会が発行する機関誌の編集長だった時、この機関誌に掲載された一つの記事が当時の学長を暗に批判したものだったことから大学側はその記事の執筆者を探し出そうとした。しかし、アウン・サンは「報道の倫理」を理由に決してその名を明かさなかった。そのため、大学側はアウン・サンに3年間の停学処分を下したが、それは、アウン・サンの先輩であり自治会の委員長であったウー・ヌ(後のビルマ初代首相)に対する退学処分をきっかけに始まっていた学生ストライキの火に油を注ぐこととなった。このストライキは学長の辞任、処分の停止や様々な大学改革の実現を勝ち取っただけでなく、全ビルマ学生同盟(ABSU)という全国的な学生組織の結成や、学生運動と民族運動が直接合流する契機となった。学生リーダとして広く名を知られることとなったアウン・サン氏は、後に、ラングーン大学の自治会とABSU両方の委員長に就任する。そして、1938年10月には、民族・反英運動を展開していたタキン党に、ウー・ヌと共に入党。ビルマの独立のために本格的に活動を展開することとなる。

 アウン・サンは、入党後間もない1938年11月に、いきなり、事実上の党内ナンバー2である書記長に抜擢される。翌39年9月にドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦がヨーロッパで勃発すると、アウン・サンらは反植民地運動を推し進める好機ととらえ、他の政治勢力と共に統一戦線「自由ブロック」を結成、アウン・サンはその書記長にも選ばれた。こうした独立運動に対し、イギリス官憲や、ビルマ(1937年に英領インドから分離して英国の直轄植民地となった)当局は取り締まりを強化。自由ブロック議長のバー・モウ(直轄植民地ビルマの初代首相(1937年4月~39年2月))を始めとする幹部を次々に投獄した。そのため、逮捕を逃れたアウン・サンらは、地下に潜って活動を続けた。

 「自由ブロック」は反英運動として大規模な集会やデモを繰り返す一方、リアリストのアウン・サンらは、独立を勝ち取るためには外部からの支援を得ることが不可欠であるとも考えていた。スー・チーによるアウン・サンの伝記によれば、アウン・サンは「民族主義者がゲリラ活動を展開するには武器を手に入れることが必要だ」と強く主張したという。ビルマに隣接する大国と言えば中国とインドであり、自然の成り行きとして、アウン・サンらは、先ず、中国国民党、中国共産党、そしてインド国民会議派から武器の援助を得ようと接触を試みた。しかし、当時の中国国民党政府は日本と戦っている最中であり、米英から援助を受けている立場にあった。また、ビルマと同様に独立運動を展開していたインド国民会議派に、アウン・サンらの運動を支援する余裕はなかった。そのため、中国共産党との接触を図るべく、スー・チーによれば「地下活動を身をもって実践していた唯一の人間だった」アウン・サンは、同志のタキン党員ラ・ミャインと共に、1940年8月、ビルマを密出国し、中国のアモイに向かった。

 アモイの共同租界地に到着したアウン・サンらは、中国共産党との接触を試みるが、不成功に終わる。代わりに、アウン・サンらに接触してきたのは日本の憲兵隊であった。そして、二人は、当初の計画にはなかった日本行きを決意し、「面田紋二」(アウン・サン)、「糸田貞一」(ラ・ミャイン)という偽名で、1940年11月、東京・羽田空港に到着。そこで、鈴木敬司・陸軍大佐の出迎えを受けた。鈴木敬司こそ、アモイ租界地の憲兵隊にアウン・サンらを探し出すよう要請した人物であり、当時は「日緬協会書記兼読売新聞記者・南益世(みなみ・ますよ)」という偽名の下、ビルマでの工作活動を展開していたのであった。
(続く)

※この原稿は、榛葉賀津也参議院議員の政策秘書時代に書いたものです。敬称略。

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「鬼ごっこ」でギネス記録に挑戦しませんか!

2012-11-22 | スズキのおススメ+コラム
 12月8日(日)の午後に、草薙陸上競技場で「世界記録」が誕生するかもしれません・・・実は、誰でも参加できる「鬼ごっこ」でギネス記録を作ろうという壮大な試みに向けた準備が静岡県内で進められています。その名も、「3000人鬼ごっこ in 静岡」。その実行委員会のメンバーと共に川勝知事を訪問し、激励して頂きました。

 
※知事室にて(11月16日)。三角のマスコットはイメージキャラクターの「おにっぴー」


※静岡新聞記事(11月21日)

 3000人という規模で鬼ごっこをしようとするとかなり広い場所が必要となります。しかし当初は、鬼ごっこでギネス記録に挑戦するということの意図がなかなか理解してもらえず、肝心の場所が確保できずにいました。そこで、私のブログを見た実行委員の方が、もしかすると手伝ってもらえるかもしれないということで、面識もない私のところに連絡をしてきたのです。この企画は単にギネス記録に挑戦するという単発的なものではなく、鬼ごっこや運動会等の活動を通じて地域の活性化に貢献したいというものであることから、私も主旨に賛同し、少しではありますがお手伝いをしてきました。今回の知事への訪問も、鬼ごっこのPRになればと考え、時間をとって頂きました。

 既に1度、鬼ごっこのプレイベントに参加しましたが、大勢(私が参加したときは100人強)で鬼ごっこをするというのは意外に楽しいものでした。最初は数人の鬼から始まり、捕まれば鬼になるという増殖方式で、全員が鬼になるまで続きます。楽しいのは、個人的には、逃げるよりも鬼として捕まえる方だと思いました。また、堂々と!素敵な女性(あるいは男性)を追いかけることができるのが鬼ごっこですから(笑)、出会いを作るきっかけとしても鬼ごっこはとてもいいイベントだと思います。更には、運動不足の大人より子供達の方が最後まで捕まらずに残ったりしますので、年齢や男女関係無く一緒に楽しめるのも鬼ごっこのよいところです。

 12月8日の本番は衆議院選挙中で残念ながら参加できそうにありませんが、是非とも多くの方に参加して頂き、鬼ごっこの歴史の1ページに足跡を残して頂ければと思います。

 詳しくは「3000人鬼ごっこ in 静岡」のホームページフェイスブックをご覧下さい。

 お読み下さり、ありがとうございます。


★追記(11月22日)


※静岡新聞記事(11月22日)若干採り上げ方は違いますが、2日連続で静岡新聞が「3000人鬼ごっこ」を報道。こんなこともあるのですね。

「ほこ×たて」静岡VS山梨 富士山写真コンテスト - 静岡から写した素晴らしい富士山の写真をぜひ!!

2012-09-22 | スズキのおススメ+コラム
 この度、日本民間放送連盟賞におけるテレビエンターテインメント部門最優秀賞獲得したフジテレビの番組「ほこ×たて」が、「静岡VS山梨 富士山写真コンテスト」を企画し、既に静岡県vs山梨県の「熱いバトル」が始まっています。

 正に矛と盾のように、機能や目的が異なる最新の技術・製品同士の「闘い」が見所の「ほこ×たて」は結構好きな番組です。今回の「富士山バトル」は第2弾で、静岡県にとってはリベンジの戦いです。たまたま第1弾も見ていたのですが、記憶が間違っていなければ、静岡県側の富士市と山梨県側の富士吉田市?の観光担当の方がそれぞれ自慢の富士山が入った写真を5枚ずつ持ち寄り、それを外国人審査員が判定し、結果2対3で山梨県側が勝利したというものでした。今回の第2段は、県同士で直接争うというものです。

 「どちらから見た富士山の方が美しいか」という競争に対して、くだらないという声も恐らくあるでしょう。しかし、静岡側から見た富士山の様々な「顔」を知っていても、山梨側から見た富士山というと、富士五湖から見た富士山くらいしか思い浮かばないのは決して私だけではないでしょう。今回のような企画は、お互いに知らない富士山の美しさの新たな発見につながるでしょうし、日本の番組はよく海外でも放送されますから、今回の企画が国内だけでなく海外でも新たな富士山ファンと観光客の発掘につながるかもしれません。問題が無ければ、来年の6月には富士山が世界文化遺産登録される予定ですから、相乗効果も期待できると思います。

 写真に自信のある方は是非ともご応募下さい!締め切りは来年の5月7日(当日消印有効)ですので、時間はたっぷりあります!

※応募方法等は、静岡県ホームページ(←クリック)をご覧下さい。

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何とか残したい!大井川鐵道のSL

2012-07-23 | スズキのおススメ+コラム
 7月18、19日に、県議会の企画文化観光委員会で県内視察を実施しました。視察先は、静岡県立大学(短期大学部)、中部電力東清水変電所、同大井川電力センター、同塩郷堰堤、同川口発電所、そして大井川鐵道本社(SL等)です。今回はその中でも、宣伝もかねて、大井川鐵道(※「鉄」は「金」を「失」うと書くことから縁起が悪いので「鐵」という字を使っているようです)の特にSLについて触れたいと思います。

 当日は、お忙しい中を、伊藤社長から大井川鐵道の経営環境について説明を伺いました。大井川鐵道の場合、収益性の高いSLを中心とした団体ツアーの誘客により平成17年度から経常黒字に転換した(昨年度は大震災等の影響により赤字)ということで、説明やその後の質疑の中心はSLに関するものとなりました。



※昨年10月に設置された転車台に載った「C12164」。見た目は綺麗ですが、ボイラー故障のため現在は自力では動きません。






※転車台はこんな感じに(写真では分かりづらいですが)電動で回転します。人力でも回転可能ですが、かなり大変だということなので挑戦しませんでした。


※SLの燃料の豆炭。新金谷-千頭間(37.2km)を往復するのに約1トン必要だそうです。ちなみに水は7千リットル(ドラム缶35本分)必要とのこと。


※廃材置き場ではありません。豆炭焚きつけ用の木材です。


 現在、大井川鐵道が所有するSLは計6両。最も古いものは昭和5年(1930年)製で、最も新しい車両でも昭和21年(1946年)製。しかしながら、その最も新しい車両ともう1両はボイラーが破損しているため動かすことが出来ず、現在稼動可能なものは4両だけ。しかも、いずれも製造して70~80年が経過しています。ですから、定期的に点検し故障部分や部品を修理・交換しながら何とか維持しているわけですが、新たにSLを製造しているところはありませんので、そうした修理の技術や部品を維持・確保することは年々、難しくなってきています。ちなみにボイラーを交換するのに4億円位掛かるそうで、頑張っても年間に1億円超ぐらいの営業収益しかでない大井川鐵道にとって、そうした大規模修理の経費の負担はなかなかできないということです。



※最も古い「C108」。近くで見ると本当にボロボロに見えますが、現役です。


※「C108」の脇腹。かなり錆びています。これでも現役です。


※運転室の運転席側。運転席側の窓からは左側しか前は見えないので、右側は機関助士が確認するとのこと。


※様々な計器が並んでいます。やはり年季を感じます。運転中の室内は60度もの暑さになるそうです。


※石炭を入れる焚き口です。


※火室内部です。長年の使用により壁が薄くなってきているそうです。


 とはいえ、SLが動かなくなったら大井川鐵道の状況は益々悪くなり、その結果、鉄道そのものが廃止となれば地元の方の貴重な足がなくなってしまいます。また、SLはやはり貴重な観光資源ですので何とかしたい…それにはまず、更に多くの観光客にSLを利用してもらってより多くの収益を上げ、SLの維持費用を捻出することが必要です。ただ、SLというのは、実際に乗ってみれば分かりますが、乗り込んでしまうと、普通の古い電車とそんなに変わりません。SLは実際に煙を上げて走っているところや、駅に入ったり出発したりする時の姿は魅力的ですが、乗ってしまうと、正直、面白いものではないのです(個人的な感想ですが)。車窓の景色も、のどかではありますが魅力十分とは言えません。ですから、乗車中も何か楽しくなる魅力的な仕掛けがないと、更なる誘客は難しいように思いますし、実際、そういう認識を会社側もお持ちでした。大井川のSLには特に台湾人観光客も団体で訪れるということでしたが(なぜか中国と韓国の団体客は殆どないとのこと)、外国人観光客は特に短時間であれこれ楽しむ必要があるのですから、そこで、例えば、SL乗車中に、お寿司とか焼肉とかしゃぶしゃぶ等の食べ放題をやってみたらどうかという素人ながらの提案をさせて頂きました。食事ということであれば駅弁を提供しているし、食べ放題となると車両の関係でなかなか難しいという回答でしたが、何か思い切ったことをやらないと大幅な増益は難しいのではないでしょうか…



※青く塗られた「C11227」。少し「きかんしゃトーマス」の雰囲気あり?実際、きかんしゃトーマスの格好にしてみたら人気が出るのではと聞いたところ、以前、ミニSLを作ってトーマスの顔をつけたが、それだけでも許可をもらうのに数十万円掛かったので、実物大ではとても無理とのことでした。 


※7月21日静岡新聞記事。青いSLは「SLくん」として7月21日から期間限定で走っています。子どもたちと一緒に是非!!

 
 どうしても収益だけではSLの維持が難しいということであれば、募金等でもするなりして何とか維持したいものです。何かいいアイデアがあれば教えて下さい。静岡県の財産としてみんなで守っていきましょう!

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静岡空港は意外に?便利です!最大限活用しましょう!!

2012-06-01 | スズキのおススメ+コラム
 3月25日の台北線就航により、静岡空港からの国際線は、ソウル、上海、台北を結ぶ3路線となりました。また6月18日からは、上海経由の武漢線も始まります。私もこの3月に静岡空港を利用しましたが、意外に?便利であることを改めて実感しました。折角の資源を有効活用しませんか!

① 小さいからこそ便利!
 小さいからこそ便利な点が沢山あります。まず、チェックインして飛行機に乗るまで、あるいは飛行機から降りて空港を出るまで、迷うことなく短時間の移動で済みます。また、売店も小さいですが、静岡の代表的なお土産は大体揃っていますので、搭乗時間が迫っていても短時間で買い揃えることができます。更に、お見送りの方は、3階展望デッキ(※下写真)から、飛行機が位置について滑走し離陸するまでの一連の動きをしっかり見ることが出来ます。小さい空港ならではです!


※静岡空港3階展望デッキ。オレンジ色のFDA機が飛び立とうとしているところです。

 そして、空港の駐車場(約2千台分)に無料で車を置いたまま海外に行けます。東名・新東名高速道路を使えば、静岡市内から空港まで1時間以内です。旅行先で沢山のお土産を買っても、車なら帰りも本当に楽ですよ!

② 行き先は無限大!
 国際便は3路線だけとはいえ、ソウルの仁川空港、台北の桃園空港は、それぞれ韓国、台湾最大の国際空港ですし、上海の浦東空港は中国で3番目に利用客数が多い国際空港です。ですから、これらの3空港からの便を乗り継げば、ヨーロッパや北米等、実に様々な地域に行くことができます。


※静岡空港で行なわれた静岡・台北便就航記念式典(3月25日)

 例えば、午前11時45分発のソウル便なら、仁川空港で乗り継いで、ハノイ、バンコク、ジャカルタ等のアジア各地はもちろん、ロンドン、ニューヨーク、ロサンゼルス、ラスベガス等にも、時差の関係でその日のうちに行くことができます。あるいは、午後8時発の台北便なら、乗り継ぎ便利用で、同日中にバンクーバー、あるいは翌日の午前11時過ぎにシドニーに行くことも可能です。

 また、静岡から各地に直行で飛ぶチャーター便も随時企画されています。これまでに、マカオ、チューリッヒ、アンカレッジ、マドリード、バルセロナ等へ直行便が飛んでいますし、この夏には、ハワイへのチャーター直行便も企画されています。詳しくは、富士山静岡空港富士山静岡空港サポーターズクラブのホームページ等で確認できます。

 他県同様、人口減少や高齢化が進む静岡県の経済を盛り上げるには、静岡県を訪れる外国人観光客を増やすことが大変有効だと考えます。まず、私達県民が静岡空港を更に利用することで就航便が増え便利になれば、より多くの外国人観光客を引き付けられるでしょう。静岡空港を最大限活用しましょう!

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スカイツリーに行くなら、「Fujisan Deli」もぜひ!

2012-05-19 | スズキのおススメ+コラム
 いよいよ5月22日からスカイツリーが営業開始します。そこで、スカイツリーに行く前あるいは行った後に是非ともお立ち寄り頂きたい、「Fujisan Deli」をご紹介します。


※平成23年11月8日静岡新聞記事

 「Fujisan Deli」は、私の先輩である勝又喜久男・前静岡県議会議員が、スカイツリーのたもとに、昨年11月オープンした「アンテナショップ&カフェ」です。名前の通り、富士山や勝又先輩ご出身の裾野市そして静岡東部にまつわる名産品を中心に販売しており、また、お洒落で健康的な食事を頂くこともできます。ご紹介が大変遅くなりましたが、実は開店直後の昨年11月、3回目の震災現場視察に行く前に、先輩議員と共に「激励」してきました。


※勝又先輩(右)とお店のスタッフの方

 店内はこぢんまりながら奥に個室もあり、ちょっとした飲み会や打ち合わせにも使えそうです。また、静岡県の名物を使った飲食店は東京に意外とないように思いますので、県外の友達と一緒に行かれてもいいと思います。

 また、スカイツリーの写真がきれいに撮れる十間橋(じっけんばし)からすぐのところにありますので、スカイツリーに上って、十間橋で写真を撮って、そして「Fujisan Deli」で食事というのもいいんじゃないかと思います。


※お店から十間橋方向の様子。写真中央下あたりの赤い○が十間橋です。「Fujisan Deli」の目と鼻の先です!


※スカイツリーはとてつもなく背が高いので、全体を上手く撮るのは簡単ではありませんが、十間橋からなら、普通のデジカメでも、このように全体を収めることができます(撮影:鈴木智)。


※また、風がなければ、このような「逆さツリー」の写真を撮ることもできます(撮影:鈴木智)。

 十間橋周辺では「北十間川水辺活用構想」に基づいた開発もこれからされていくようですので、更にお洒落なスポットとなっていくことと思います。ぜひ一度、そして二度三度と行ってみて下さい。私も東京に行く際には是非とも利用したいと思います。

※「Fujisan Deli」の詳細はこちらぐるなびでも紹介されています

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