政府も国会も、元々、国民から預けられた金の中から、国民に10万円を給付する(返す)だけなのに、くだらない議論に終始。
今の政治には、うんざり。議論ばかりで、決断が遅過ぎる。
「物事を、話し合いと多数決で、決する」民主主義は、スピードが求められるデジタル社会では、役に立たなくなってきたようだ。
デジタル社会では、為政者と、その為政者を選ぶ国民の情報量に、ほとんど差が無くなった。
そのせいで、為政者の決断が遅いと、国民の方が先に、正しい決断は何か、分かってしまう。
そうなったら、為政者の決断の中身より、決断が遅い為政者に、批判が向かうのは、当たり前。
国民にしてみれば、自分たちで決断できることを、わざわざ、高い報酬を払って、為政者に任せるなんて、「もう真っ平」となる。
だいたい、民主主義の要と言える「多数決の原理」も、時代遅れになってきた。
51対49で決した結果に、全員が従わなければならない理不尽。
おそらく、多数決なんて、近い将来、「過去の遺物」となるだろう。
国民一人一人の、情報量が増え、志向性も多様化した現在、多数決だからと言って、負けた49を、無理矢理、勝った51に従わせる「民主主義」は、言ってみれば、「排除の理論」。
見方によっては、多数決で、勝った集団が、負けた集団を、抑圧できる「恐怖政治」。
もし、負けた49が、どうしても、51に従いたくなければ、クーデターか、49のための国を作る革命しかない。
ここまで言うと、フィクションの世界に、なってしまうが。
民主主義って、結構、残酷な政治制度なのかもしれない。
会ったこともない為政者に、自分の生活や人生、場合によっては、生死まで任せるなんて、普通ならあり得ない。
だって、現実の世界の主人公は、常に自分なのだから。
もうそろそろ、主人公である私たちは、民主主義で選ばれた為政者が操る世界と、決別し、自分の夢や希望を叶えられる世界を、創造しなければならない。
そうは言っても、現実世界の様々な制度や仕組みを変えるのは、並大抵なことではない。
それでも、変えなければならない。
ただ、心配しなくても、ロボットや人工知能(AI)が発達して、人間の能力を超える頃には、私たちは、自分の生活や人生を、人間に任せる必要は、無くなる。
そうなれば、「人間同士の委任に基づく民主主義」なんて、無用の長物となるだろう。