ロシアのウクライナ侵攻。
よく考えて見ると、旧ソ連の中核だったロシアとウクライナの同胞の戦い。
西側のメディアが大好きな「自由と民主主義と専制主義の戦い」なんて、後から取って付けたフレーズだろう。
さしずめ紀元前の「ギリシアとペルシャの戦い」か、中世の「十字軍の遠征」を想起させる、白人独特の世界観に根付くアナクロニズムだ。
アメリカも西側諸国も「ロシアという敵」の「敵となったウクライナ」を支援しているだけ。
世界を巻き込まず、白人同士で好きなだけ勝手に戦ってくれと言いたいくらいだ。
だいたい、白人は戦争と疫病のせいで人口が少ないのに、NATOとロシアの間で核戦争でも始まれば絶滅危惧種になるかもしれない。アジア、中東、アフリカの時代の到来だ。
もしそうなったとしても、白人の傲慢さのせい、自業自得だろう。
そもそも「自由と民主主義」国家でも、「専制主義」国家でも、国家というものは支配層のためのもの。ただ「自由と民主主義」の国家の方が「専制主義」の国家より、支配層の数が多いのが「自由と民主主義」の国家の売りだ。
しかも「専制主義」国家のように支配層による苛烈な抑圧や搾取など無く、誰にでも成功のチャンスがある、アメリカン・ドリームの世界。
そんな薔薇色の「自由と民主主義」の国家だが、所詮は資本主義国家。
「自己責任の下での自由競争」に勝てればドリーム達成で支配層の仲間入りだが、敗れれば被支配層入りが確定する。
そうなれば自由や民主主義とは無縁、生きるだけで精一杯だ。
「自由と民主主義」の国家と言っても、支配層にとって極めて都合よく作られた国家だから、被支配層は、いつも搾取され利用され犠牲にされる。
誰でも参加できる自由競争で負けた結果、被支配層になったのだから、自己責任として甘んじて受け入れろということだろう。
だから被支配層にとっては「自由と民主主義」だろうが、「専制主義」だろうが、大差はないのかもしれない。
それなのに「自由と民主主義」国家の被支配層は、それに気付かない。いや、気付きたくないだけなのかもしれない。
ロシアのウクライナ侵攻に対して、日本のメディアに登場する文化人たちは、ウクライナ国民が「自由と民主主義」のために戦っていることを賛美している。「もっと戦えと」。
それどころか、日本人もウクライナを見習えとでも言いたそうだ。
まさに一昔前の「社会主義信奉文化人」の「反アメリカ主義」と全く同じだ。
コメンテーターとして勇ましいことは言えても、巷で暴力を振るう人間を止められないのが文化人。生まれてからペンより重いものを持ったことがない頭デッカチな人たちだからしょうがない。
子供の頃から、周囲のイジメを見て見ぬ振りして、ガリ勉してきたのが文化人。言い過ぎかゴメン。
とにかく、そんな連中に、いろいろ言われたくない。
自由と民主主義のために命を懸けさせられるのは、あなたたち「文化人や支配層」ではない。
自由と民主主義の恩恵などほとんど受けたことがない「被支配層」ばかりが犠牲を強いられる。
いつまでたっても、この不条理は変わらないのだろう。