よく考えると 神社を定義するのは難しい
自分は幼児洗礼を受けボナベントラと言う洗礼名を持っている
カトリックと精神的に決別したのは中学で 養子になり 一人暮らしを始めてからだ
自分も人の子 親から離れ一番多感で めんどくさい半端時期を一人で解決せざるを得なかった
禅宗や 多様な思想 哲学 心理学にかぶれたのもこの頃
今思うと とても気負い過ぎて 単純で 恥ずかしい時期である 慙愧の至り この上ない
で 無宗教になってしまった
無神論者ではないが
じじいになっていい事は こだわりが少なくなることだ
物事はなるようになって行くし なるようにしかなってゆかない それが当たり前と思う
神道を宗教と決めつける人はいる
多分 キリスト教 イスラム教 ユダヤ教 仏教などの絶対神を神と定義するからだろう
神道は かむながらのみちと言う
神宗ではない もちろん 神教とは言わない 神道である
茶道 華道 と 同じである
武道 柔道 合気道 と 同じである
茶を極めるように 武を極めるように 魂を極める それだけの事
宗教には 絶対の存在があり 天地自然を創造し 神の代理人として預言者があり
創始者が存在し 苦行を積んだ優秀な者が精緻な教義経典を作成し
神の教える 絶対法を守るように 信者に強制する
善悪は神が決め 信ずる者はそれに その教えに 絶対服従しなければいけない
神道には 創始者がいない 教義経典もない
苦行する 学問僧や 僧尼 修道士 修道女もいない
そもそも学ぶべき経典はないので当たり前だ
学ぶのは 昔からの しきたり 形式 行事 祭礼のみである
必要なのは 身の清めだけで それ以外ない
難行苦行も必要ない
そんな事は
自分の身を害するのは せっかく生んでくれた祖先に背く行為と 目を背けられるだけだ
参拝者も 手水屋で 手口をそそぎきれいにし
二礼二拍一礼と言う形式を守るだけで それ以上は要求されない
神社は完全なオープンスペースで どんな人でも出入りできる
その人が キリスト教徒や仏教徒であっても なんら問題にならない
全ての人が同じであるので 異教徒と言う概念が初めからないからだ
もちろん 拝観料 入場料を取る神社なんてない
偶像崇拝もない
鏡などの御神体はあるが それは神の憑代であって神そのもではない
神は目に見えぬ魂のようなもので あると思ってもいいし 無いと思っても どちらでもいい
崇拝があるとすれば
それは自然に対しての 自然現象への 畏敬の念と 自然への感謝だけだ
平将門の様な反逆者も神社に祭られる
東郷神社もある もちろん 菅原道真は天神様になった
いかなる人も 亡くなれば 神になってしまう
死ねば全ての人は神 死者を鞭打つなど人間ではないと
だから 神様が 無限に増えてゆくことになる
食事の時 敬虔なキリスト教信者は神に祈りを奉げる
我々も いただきますと言ってご飯を食べる
彼らと違うのは 食事ができる状態を与えてくれた絶対神に感謝するのではなく
作ってくれた人 食べ物そのものに感謝してる事だ
ご飯やおかずそのものを前にして いただきますと言い
終わったら ごちそう様でしたと言う
米や肉魚野菜に そこに至るまでの 漠然とした 従事している人や社会背景に感謝する
自然崇拝 アニミズムと言うのはたやすいが
文明化されていない人々の 素朴な精霊崇拝や自然畏怖 呪術信仰とは違うような気がする
もう一度 神道と言う言葉を考えてみる
茶道は 茶を点てることを手段として 己の精神世界を高めてゆく道である
武道は 切った張ったの 殺伐な 命のやり取りの中から 自己の技術や精神を鍛えてゆく道である
武道の最高の極意は
天下一の剣術使いでありながら 敵を作らぬことが 武道の奥義である事を悟る事だと言う
神道は 日常の場が 自己鍛錬の場 絶対神などの他者を必要としない
それぞれの能力に応じて 頑張ればいいし 挫折しても非難されることはない
簡単に言えば どうでもいいのだ 自己責任なのだから
神社は 人々にとって
お願い事したり 清浄な空気に触れてリフレッシュしたり
八百万の神々を通して 自分を考えたり
ふと 真面目に自分に向かい合う場でもある
ま しかし 大上段に構えて ああたらこうたら言うのも違うような気もする
明日から仕事 おっくうだな
さて 段取りでも考えるか
日常に戻ろう
テンションあげて 何時もの日々へ戻るか
寝よう